夏なので怖い話をします。
その日も蒸し暑い夏の一日でした。その日は夕方から、僕の女友人が家に遊びに来ていました。彼女は高校の同級生でふだんは東京の大学に通っているのですが、試験も終わり夏休みに入ったので、観光目当てに京都まで友達と一泊の旅行に来たのです。しかし予約していたホテルに着くなり、大学のサークル仲間というその友達はさっそうと消えてしまいました。どうやら、その西村さんという友達は京都に恋人がいるという話で、今回の旅行も僕の友人を連れて来たのはただの親への口実、目的は観光なんかではなく恋人に会うためだったというのです。恋人の存在などその友達が別れ際に早口で教えてくれて初めて知った僕の友人、呆れ返って文句を言う力も無く、夏の暑い京都に一人取り残され、それからなんとか高校の同級生に京都の大学に行くことになった人、つまり僕、がいたことを思い出し、連絡を取り、遊びに来て、出来たての愚痴をつまみに酒など飲んでいたという次第です。
「もうね、絶交もんだよね」と彼女、三田村という苗字なのですが、そう言って日本酒をあおります。「ごめん!恋人がね、ごめんね!とか言って、あっという間に走って行っちゃった。信じられない」
「まあね、そうだろうね」と僕は答えます。そういう事態に直面したことがないので、何と言っていいのか正直分かりません。
結局、二人で日本酒を一升開けました。僕もそのうち二割くらいは飲んだかと思います。彼女は酒に関しては底なしなのです。高校生の時から。
一升瓶が空になったのが午前二時くらいでした。彼女は眠いからそろそろ帰る、と言いました。そうか、と僕は頷きました。「もう遅いし、泊まっていったら」と僕は言いかけましたが、止めました。一つには彼女のホテルというのが僕の下宿から歩いて十五分ほどの距離なので(ホテルが四条烏丸、僕の家が新町御池)、引き止めるには弱いということ。それに下宿に一組だけある布団は僕一人で使っても寝返りをうつと外に出てしまうというとてもミニサイズのものなので、到底二人での利用には耐えられないということもあります。夏なので僕が我慢して布団無しで寝るにしても、狭く散らかった我が家、布団以外に横になるスペースもありません。今飲んで食べた酒瓶やおつまみの袋、それ以前から散乱している雑誌や本、ゴミの類をまとめれば良いのかもしれませんが、彼女はさておき僕はそれなりに酔いが回っておりそんな気力もありません。おそらく彼女も僕の部屋の隅にある万年床、その他スペースなどを見回し、「この家で眠るのは不可能」と判断したのだと思います。「もしあの時もう少し部屋にスペースがあったら、大きな布団が一組あったら、彼女は泊まっただろうか?」というのは永遠の課題です。
ただ、僕が「もう遅いし、泊まっていったら」と言わなかった一番の理由は、彼女に対して下手なことを言いたくなかったから、かもしれません。
「それじゃ」彼女はサンダルを履き終えると手を小さく上げて言いました。
「四条烏丸だよね、ホテル」と僕は知っていることを言いました。
「そう」
「送るよ」僕は言いました。
「すぐそこだよ」
「そうだけどね」僕は頷きました。「いや、まあすぐそこだから送るのかも。遠かったら辛いな。帰りが一人で怖いし」
「怖い?」
「このあたりは結構、夜あぶないんだよ。まあ、そういうわけで送るよ」そう言って彼女を狭い玄関から押し出すと、僕も靴を履きました。
僕たちは新町通を下りました。三十秒ほど、おたがいに無言でしたが、そのうちに彼女が言いました。「さっき、夜あぶないって言ったけど、何か事件でもあったの?」
「うん」僕は頷きました。「ニュースにはなってないんだけど、最近このあたりでは夜、ナイフみたいなもので服を切りつけられる事件が何件が起きてるんだ」
「本当に?」
「本当だよ」僕は嘘をつきました。それは僕の作り話でした。「一昨日もあったらしい。僕の大学の友達の友達が被害にあったんだって」
「怖いね」
「怖いよ。その友達の友達は、後ろからとつぜん腰のあたりを切られたらしいんだけど、そのあと走って逃げて行く犯人を少しだけ見たらしいよ。黒ずくめの格好で、背の低い人だったって。帽子を被っていて、男か女かは分からなかったらしい」
「その人は大丈夫だったの?」
「服を切られただけだったんだ。お気に入りの服だったらしいけど、怪我は全然なし。いつも服を切られるばっかりなので、それを狙っているんじゃないかって言われてる」
「詳しいね」彼女は言いました。
「友達の友達が被害にあったからね」僕は答えました。「そう、被害にあった人達はみんな共通点があるんだった」
「なに?」彼女は言いました。「美人とか?」
「それは知らない。その友達の友達には会ったことがないし。男だって被害にあってるみたいだよ。そうじゃなくて、その共通点ってのは、みんな早足で歩いていたということなんだ」
それを聞いて彼女はぴた、と歩くのを止めました。僕は続けます。
「家に帰る途中だったり、どっかに急ぎで向かってたりして、早足で歩いていると、もっとすごいスピードで後ろから切られるんだ。もちろん、その様子を見ていた人がいるわけじゃないから本当のスピードってのは分からない。でも後ろに誰かいるかな、って思ったらもう切られてる。被害にあった人はだいたいそう言っているみたい」
「後ろに誰かね」彼女はちらりと後ろを見ました。僕も見ます。誰もいません。新町通は車一台半分くらいの狭い道で、街灯はぽつぽつとしかありません。このあたりはビジネス街なので、夜は静かで暗いのです。
「どうして早足の人が狙われるのかは分からない」僕は言いました。「でも世の中には、そういうよく分からない人がときどきいる。もしかしたらその人は日中誰よりも早歩きで、ビジネスマンに追い抜かれるたびにペースを上げて抜き返すような人なのかもしれない。だから昼間のライバルを夜のうちに減らそうとしているのかもしれない。あるいはもしかしたらその人はスローライフの体現者で、生き急いでいる人達に警告を与えているのかもしれない。その人は目が悪いので、動物のように高速に動くものだけを聞き分けて狙っているのかもしれない」
「何にせよ、困った人には違いない」彼女は言って、また歩き出しました。「早く捕まってくれればいいのに」言いながら、彼女は歩いていました。ゆっくりと。僕は彼女の歩調に合わせて歩きました。ときどき、誰かが後ろにいるような気がしましたが、振り返っても誰もいませんでした。計ったように誰も。
「ゆっくり歩けば大丈夫なんだよね」彼女は言いました。
僕は頷いて「ゆっくり歩こう。ゆっくり」と言いました。
僕たちがホテルに着いた時には、家を出て半時間ほど経っていました。僕たちはとてもゆっくり歩いたのです。僕は彼女に誘われて、こっそりそのホテルで一泊することにしました。「なんか怖い話を聞いたから」と彼女は言いました。
これが僕の怖い話です。
翌朝、テレビを点けたら家の近くが映っていました。それはニュース番組の現場中継というやつで、レポーターがこのあたりで一人の女性が通り魔に刺されたと身ぶりを混じえながら主張していました。刺された女性は重傷で、未だ意識が無いという話でした。
彼女はそんなニュースの声に呼び出されるようにベッドで体を起こすと、一気に顔色を変えました。「西村さん」と彼女は言いました。
2004/07/21 - 2004/07/22
この文章は小関悠が書いた。特に明記のない限り、この文章はフィクションであり、私と関係がある、もしくは関係のない、組織や団体の意見を示すものではない。
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