深夜、日が変わるころ、山梨良助はテレビのチャンネルを72に合わせる。21型の液晶テレビ。先月、梅田のヨドバシカメラで買ったばかりの新製品だ。税込13万円、そのツヤツヤの液晶が、どこかの小さな風呂場を映し出す。ユニットバスなのだろう、画面の端に便座のゆるやかなカーブが確認出来る。
山梨は膝の上に乗せたノートパソコンに目をやり、そのディスプレイの隅を小さく占拠する時計を見た。長針と短針があと少しで重なる。もうすぐ0時だ。時計をダブルクリックすると、今月のカレンダーがパッと表れた。9月27日、月曜日。月曜日はバイトのある日だった。疲れて、少し行動が遅くなっているのかもしれない。家にはもう戻っているはずだと、山梨は思った。パソコンのディスプレイを大きく占めたウィンドウの中心で控え目に点滅している赤いドットが、そのことを示している。
ノートパソコンを閉じて机にやり、部屋の電気を切る。テレビから漏れる光だけが部屋を淡く照らす。山梨はそのテレビをベッドの方に少し回転させて、ベッドで横になる。それは彼にとって毎日の日課のような作業だった。
夏布団を一枚かぶるも肌寒く、そろそろ冬布団にしてもいいかなと彼は思った。ただ、今日はもう動く元気が無かった。いつものように、その日もひどい一日だった。そういう考え方をしてはいけないと思いつつ、それを強いられるような一日だった。山梨は布団をぎゅっと抱いた。そうすることで何かのエネルギーが生まれて、寒さを和らげてくれるのではないかと彼は思っていた。そうしながら、彼は変化の無いテレビ画面を見ていた。
彼女の声が聞こえてきたのは、どれだけ時間が経ってからのことだろう。山梨は起き上がって、時計を確認したりはしなかった。それは明日になれば分かること。体を少しねじって、テレビの画面を見ようともしなかった。彼女の体には、もう興味を失っていた。いや、興味を失ったというのは違うかもしれない。山梨にとって、それはもはや明らかに彼のものであったので、執着心の芽生える余地が無かったのだ。
二宮真奈美というのがそのユニットバスの持ち主で、利用者だった。今もテレビには彼女の姿が映し出されているはずだ。山梨は布団を抱いたまま、何かを待つように目を強く閉じた。シャワーを流す音が聞こえた。高価なスピーカーシステムのせいか、その音は彼自身のシャワールームから聞こえてくるように感じられた。
女がいつも頭から先に洗うのは何故なのだろう、と山梨は今日も思った。新しいカメラを設置するたびに彼が期待することの一つは、この家の女は体から先に洗うかもしれないということだった。しかし残念ながら、彼はまだそんな人間に巡り合ってはいなかった。巡り合ったところで、何が満足するのかは分からない。そういえば、頭を洗わない女はいた。それから、そもそも、風呂に入らない女。山梨はもうすぐ22になる。世の中は、まだ分からないことだらけだった。
シャワーの音が消えた。山梨は一つ唾を飲み込んで、狩りに出る豹のように耳をそば立てる。聞こえてきたのは、それまでの水音に比べてはるかに小さい、微かな歌声だった。
7つの海を越えたら
毎日が夏休みだったら
夢に君が出て来たら
飼い猫が突然ことばを話すようになったら
最後の一人になったら
明日、夕立になったら
山梨はこれまでにその歌を何度聴いたかは分からない。その歌は最初から最後まで、そんなふうにサビも無いまま続き、展開も結論も無いまま終わる。山梨はその曲を、彼女が歌う以外に聴いたことが無かった。自作なのかもしれないが、それにしては曲調も歌詞もしっかりとしていた。それは10曲入りのアルバムの6曲目くらいにお遊びで入ってそうな歌だった。マイナーな歌手の曲なのかもしれない。
歌詞がある以上、誰の歌なのか調べることも出来たが、山梨はそれをしなかった。そのかわり、彼女の歌を録音して、何度も何度も聴き続けた。彼はその曲を「なんとかだったら」という、身も蓋も無いタイトルにしている。
「なんとかだったら」の他にも、彼女はその日の気分で様々な歌を歌った。どれも聴いたことのない、不思議な、それでいてちゃんとした歌ばかりだった。山梨はそれらを全て保存した。「なんとかだったら」はもう何十というバージョンが存在し、全て彼のデスクトップパソコンに保存してある。
気付いたらうっすらと目を開こうとしている自分がいたので、山梨は再びぎゅっと目を閉じた。彼女の歌声は、今や山梨にとって欠かせない子守唄だった。中でも「なんとかだったら」は彼のお気に入りだった。目を閉じて、彼女の口ずさむ一つ一つを漏らさないように聴いた。そして「~たら」と彼女が言うたびに、その先を想像した。
彼女は小さく歌い続けていた。
一日が23時間なら
虹の麓に辿り着いたら
医者の一人娘だったら
涙が流れなくなったら
もし今と違う人生だったら、それは大変な毎日だっただろうな。山梨は思った。彼女は山梨がようやく探し当てた、大袈裟に言うならば生きるための気力の源だった。だからもし生まれ変わっても、僕はこの歌声を追い求めるだろう。山梨は思った。歌はそろそろ終わるはずだった。そう思った時には山梨は寝ていた。
2004/09/11 - 2004/09/19
この文章は小関悠が書いた。特に明記のない限り、この文章はフィクションであり、私と関係がある、もしくは関係のない、組織や団体の意見を示すものではない。
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