日時:2008/11/22 14:00より
場所:東京都某所
参加者:六名
以下は各題目と資料。資料はページ番号の右、スクリーンの形のボタンで拡大できます。
「イグ・ノーベル賞の傾向と対策」発表者は186氏。
「ミクロ視点から進める故障解析〜破面観察と材料分析による機械部品故障原因の推定〜」発表者、資料は非公開。
「ローマと道に関するいくつかの問題とその解決 「すべての道はローマに通ず」は何を意味するのか?」」発表者は赤田敦氏。
「天空の城ラピュタで誰が一番仕事ができるか」発表者はK氏。
「生産政策課題レポートNo2」発表者はshim氏
「ナンセンス・プレゼンテーション序説 あるいはどのようにしてナンセンスは死んだか」発表者は小関。
第二回以降は未定ですが、発表を希望する方はご連絡下さい。
2008/11/22
この文章は小関悠が書いた。特に明記のない限り、この文章はフィクションであり、私と関係がある、もしくは関係のない、組織や団体の意見を示すものではない。
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「砂の城」パーベル・クロチェフ
パーベル・クロチェフは90年代にロシアで活躍したサッカー選手、ストライカーである。1970年ナホトカ生まれ。地元のFCナホトカ・ユース時代は取り立てて見所のない選手であったが、187センチの長身を当時ナホトカの監督に就任したばかりの知将チチに見込まれ、88年にソビエト連邦一部リーグ(二部に相当)所属のトップチームに昇格。88年シーズンの第三節、デビュー戦となったニコライ・モスクワ戦で開始三分にPKを獲得して勝利に貢献して以来、ナホトカのエースとして長年活躍する。長身のわりにポストプレーを苦手とし、決定力に課題を残すものの、試合終了まで走り回るスタミナと、長い足を大きくストライドさせて走るスピードには定評があり、多くのファンを魅了した。91年シーズンにはリーグ得点王。PK獲得技術に優れ、この年の32ゴールのうち22ゴールがPKによるものである。ペナルティ・エリアでディフェンダーと衝突した細い体が大きく崩れ落ちる様は「砂の城」と呼ばれ、相手チームに恐れられた。当時は、60年代のナホトカに所属し、PKだけで100ゴールを決めた故レフ・ミコロビッチにあやかり「レフ二世」とも呼ばれた。インタビューでPK獲得技術について問われたクロチェフは、十代の短い時期に20センチ以上も身長が伸びたことを明かし「だから私の体はバランス感覚が崩れており、ポストプレーが不得手なのも、また倒れ方に独特のリズムがあるのも、このせいかもしれません。何事にも表裏があるのです」と説明したといわれる。92年シーズンにも27ゴール(うち24ゴールがPK)を決めると、この年チームを首位に導き、ロシア・プレミアリーグ昇格に大きく貢献。93年にはロシア代表にも選出される。同年モスクワで行われたイタリアとの親善試合に途中出場し、後半ロスタイムにバレージからPKを獲得する活躍を見せるも(ゴールはイトリビッチ)、代表としてのキャリアはこの一試合に留まった。96年シーズンには十節のロコモティフ・モスクワ戦でPKだけで3ゴールのハットトリックを達成。チームも単独首位となり、リーグにナホトカ旋風を巻き起こす。続くゼニト・サンクトペテルブルク戦でも5ゴール(うちPKで4ゴール)を決めたが、5回目のPK獲得の際に両足をすくわれて腰を骨折、シーズン絶望の大怪我となり、チームの成績も急降下、一部リーグへと降格してしまう。クロチェフには「一年間転がるだけの選手」といった批判も多いが、昨年発売されたDVD「クロチェフ全ゴール集~砂の城~」を見ても明らかな通り、獲得したPKはほとんどが妥当なものであり、彼のゴール前でのバランス感覚と、相手ディフェンダーのいやがる所にポジショニングを取る嗅覚から生まれたものである。また、その誠実で謙虚な人柄は彼に苦しめられた他チームのファンからも一目置かれていた。クロチェフは一年のリハビリを経て97年シーズン半ばに怪我から復帰。しかし完調にはほど遠く、この年のゴール数は9、PKはゼロであった。99年シーズン前に監督交代を巡るゴタゴタから、かつて彼を指導したチチを追ってフランスのレンヌに移籍。スーパーサブという扱いながら10ゴール(うちPKが7ゴール)というまずまずの成績を残す。以降、オセール、ナントとフランスを渡り歩くが、目立った成績は残せず。03年シーズンにナホトカへ復帰。スピードの衰えは隠せず、中盤で起用されることや、PK獲得を狙って試合終了直前に投入されることも多かった。04年シーズンにはPKを失敗することが目立つようになり、シーズン終盤からは他の選手に譲るようになる。チームメイトのロドリコ・チェスはこの年24ゴールで得点王となったが、うち13ゴールがクロチェフの獲得したPKであることは有名。05年シーズン終了を機に引退。半年後にロシア代表対ナホトカという形式で行われた引退試合でも前半と後半に一つづつPKを獲得し、有終の美を飾った。「私は一流ではなく、二流でさえないかもしれないが、何度かファンを喜ばせることはできた」という彼の引退時のコメントは、一部リーグが中心であったとはいえ、ソ連/ロシアリーグで通算200ゴールを決めたストライカーとは思えないほど慎しいものである。解説者を経て07年よりナホトカ・ユースのコーチ。ファンからは将来のトップチーム監督就任を嘱望されている。……
父の仕事:ラブレターの代筆
どうしてラブレターの代筆を頼まれるようになったのか、はっきりとは覚えていないんだ。友人たちとの酒の席で、過去にどんなラブレターを書いてきたかという話になったんだと思う。私がつい自作を紹介してしまって、そうしたら予想以上に持ち上げられてしまって、確かそんな流れだった。……
あたらしい愛
浮気がばれて恋人が家を出て行った。待てよ!と俺は言い、追いかけようとしたが、革靴の汚れが気になったので先に磨くことにした。モウブレイのステインリムーバーはよく落ちる。……
チャーリー・フィッツジェラルド「すてきな美術館」展
チャーリー・フィッツジェラルドの個展が日本で開催されるというニュースは矛盾する二つの意味で衝撃であった。一つは彼ほどのアーティストの初めての個展を他ならぬ日本の美術館が射止めたこと。確かに恵比寿現代美術館という優れた環境はあった。しかし開館以来快進撃を続けている彼らにとっても、フィッツジェラルドは並の相手ではない。……