早朝のコンビニストア、一人の女性が読売新聞を購入する。彼女の名前は…とりあえずAとでもしておこう。三十六歳、既婚、主婦、子供無し。趣味は人を刺すこと。なるべく人の多いところで、なるべく目立つ、若い女性を、果物ナイフで刺すのが彼女の生きがいその1だ。
「二十円のお返しでーす」と店員。大学生かフリーターか、まだ二十歳手前だろう。おつりを渡す指先がつるつるしている。薬指には指輪も見える。右手だけど、そんなに安物でもない。
この人の背中を刺せたらな、と彼女は思う。後ろから堂々と、願わくばすべすべしてあせもなど一つもない背中を、エレベーターの「閉じる」ボタンを押すように簡単に、すっと刺すことが出来たなら。
昔はそんなことは考えなかった。かつて彼女はもっと不純だった。今でもまだ、純な犯罪者とは言えない。ただ刺すことだけに快楽を覚えることが出来たら、たぶん毎日はもっと充実したものになるだろう。
彼女はそう思う。
ラッシュが過ぎてガラガラになった電車の中、隅で一人彼女は新聞に目を通す。家に戻るまで耐えられない。彼女の生きがいその2。彼女の、細い体に不似合いな大きいトートバックには、今朝の朝刊がぎっしりと詰まっている。一つのコンビニで一紙ずつ、順番に手に入れたものだ。
小さな記事ながら、ほとんどの新聞が彼女の事件を取り上げている。「8日の午後5時頃」「被害にあったのは」「部活動を終えて帰宅する途中」どの新聞も、記事の中核は同じでつまらない。これが警察発表というやつだろうか。「人通りのすくない」彼女は小さく舌打ちする。「被害者によると」彼女はいつもそこで一つ深呼吸をする。そして読み進める。「犯人は二十代半ばの女性で」バンザイ!
バンザイ!彼女はそう叫ぶ欲求を必死に抑える。客などほとんどいない車内、女性乗客が一人バンザイをしてみたところで、他人に無関心な昨今の日本社会、誰も文句も言わなければ不審に思うこともなく、何の感慨も抱かないだろう。
しかし、彼女は喜びを噛みしめる方を選ぶ。二十代半ば。いい響きだ。二十代、半ば。二部づつ買っておけば良かったと思う。いつもの切り抜き用と、ストック用に。ともあれ、不純でも、続けて来て良かったと思う瞬間。風呂上がりのフェイスマッサージのおかげかしら。新しい化粧水に彼女は感謝する。高いけど、買って良かった。
彼女は被害者を思い出す。生まれてこの方、肌の心配なんてしたことありません、なんて顔の中学生。あの娘に感謝したい。彼女は思う。感謝してもしきれない。なんていい娘なのかしら。何度でも刺してあげたい。
彼女はそう思う。
彼女の夫は、まだフランスである。もう一度くらい、帰って来る前に出来るかも。彼女は思う。新しい街を探して、滞在するホテルを選んで、それから下見。服はもちろん、出来れば化粧品も新しいものにしたい。
でも今回のより、いい化粧品はあるかしら。二十代半ば。あるいは、出来すぎなのかしら。
彼女はそう思う。
2003/09/08
この文章は小関悠が書いた。特に明記のない限り、この文章はフィクションであり、私と関係がある、もしくは関係のない、組織や団体の意見を示すものではない。
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