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ジュリア

 美濃部紀子は毎朝、六時に目を覚ます。毎朝、勤勉な目覚まし時計が定められた時間にキリキリと鳴るのだ。毎朝、寝起きは良くない。頭が痛くて起き上がるのが億劫な日もしばしばある。それでも毎朝、六時五分には、ちゃんと朝ご飯の用意を始めるようにしている。用意といっても大したものじゃない。大抵は食パンをトースターに放り込むだけで、せいぜいお湯を沸かして粉末のスープを作るのに備えるくらい。それでも、寝坊したりまた眠ってしまったりは絶対にしない。彼女は計画通りに物事が進んでいくのが好きだし、自分自身もそうでありたいと思っている。毎日がスケジュール通りに進行していくというのは、多くの人達にとっては退屈でつまらないものかもしれないが、彼女にとってはいちばん好ましい状態だった。

 トーストには他人が見たら眉をひそめるくらいにバターを塗る。気分がいい日には更に砂糖も少々。彼女は他の多くの女性と同じように甘いものが好きだが、本質的には甘いものというよりも砂糖そのものが好きだ。昔はこっそり戸棚にある砂糖を母親の目を盗んで舐めたりしたものだった。風呂についた垢を舐める妖怪のようにこっそりと。

 とても寒い日にはレトルトの粉スープをつくって飲み、そうでない日には牛乳を飲む。牛乳は、物心ついた時から彼女にとって無くてはならないものである。いろいろな機会で採血される度に、注射針から白い血が出てくるのではないかと、彼女は少し不安になるほど。医者が「あなたの体の94パーセントは牛乳で出来ている」と言っても、彼女は恐らく信じただろう。ちなみに彼女の身長は148センチで、中学二年の時からほとんど変化がない。牛乳を飲めば背が伸びるというのは嘘だな、と彼女は三日に一回は思う。それでも彼女が牛乳を飲み続けるのは三つの理由があって、一つには未だに飽きたという感がないし、一つには健康を考えると飲み続けた方がいいような気がするし、一つには今更止めてもかわりに何を飲めばいいのか分からないからである。

 膨大なプログラムをコンパイルさせたりしているのでなければ、彼女が眠っている間、彼女のコンピュータもやはりぐっすりと眠っている。コンピュータの目覚めは彼女よりだいたい十分遅い六時十分頃。トースターが動き始め、彼女が顔を洗った後になる。コンピュータはスリープ状態から復帰すると自動的に各種ニュースサイトから新しい情報を取り込み始める。ニュースはディスプレイいっぱいに古いものから箇条書きに並べられ、「バグ」や「次世代」といった彼女好みの単語を含んだ記事は自動的に赤く映し出される。このプログラムは、彼女の膨大な作品の中でも一二を争う彼女のお気に入りであり、彼女以外の人間にとっても彼女の作品で一番有名なものとして知られている。プログラム名は「ブラックバード」。あるいは、ただ単に「バード」と呼ばれている。

「バード」によって取り込まれた記事を眺めながら、彼女はトーストを食べる。毎朝「バード」が巣に持ち寄ってくる記事の数はおおよそ1500。その中には地球の裏側で起きた地震についてのものも、マイナーなセキュリティソフトのリリースノートも含まれる。言語とサイトのフィルタの設定を変えれば、収集する記事の数はもっと多く、莫大な数にすることも出来るが、彼女はほとんど英語と日本語の記事しか読まない。

 記事を読み進めるにはスペースキーを使うので、彼女はトーストを左手に持ちながら、右手でキーボードを叩いてその日のニュースを読んでいく。当然、興味を引いたニュースを読み終えるころには、あるいはトーストを食べ終えるころには、パンくずがキーボードの上に散乱することになる。その光景を見る度に彼女は彼女の習慣を少し反省する。だが、長続きはしない。少なくとも、その反省が一日以上保つことはない。その朝食の光景が、彼女にとっては既にライフスタイルとなっていることを、彼女は認めざるを得ない。そして一度それがライフスタイルとなってしまうと、彼女はなかなかそれを変えることが出来ない。良いことに対しても、悪いことに対しても。

 面白くてしかも長文の記事があると読むのに没頭してしまって食事が中断することもあるが、それでもトースト一枚を彼女は二十分以内には間違いなく食べ終える。だからだいたい、朝食食べ終えてニュースを読み終える頃には六時半過ぎになっている。

 月曜日か木曜日、あるいは第二第四火曜日ならばゴミをまとめて外に出しに行く。火曜日は資源ゴミ、それ以外は自然ゴミである。ゴミの分別はよく分からない。拡張子でも付いていればいいのに、と彼女は思いながら、何となく燃えそうなものと燃えなさそうなもので分類する。高校生の頃に行なった化学の実験を思い出す。緑色に燃えるのは何だったか。服を着替える必要はない。彼女はだいたいTシャツと綿パン。眠る時だってそのままである。ということはつまり起きた時もそうであるということである。効率的だ、と彼女は考える。寒ければ上にちょっとした春コートなり冬コートなりを季節に合わせて羽織る。

 いつものように青い袋に詰め込まれたゴミを片手に玄関を開けると、ひんやりとした風が流れこんできた。暑いのは嫌いだが、寒いのは彼女にとってあんまり気にならない。この程度ならTシャツ一枚で十分、と彼女は考える。今着ているTシャツは大学時代にヨーロッパへ旅行に行った友人が買ってきてくれたものだ。白地にアニメタッチの海賊の絵があって、その海賊から出ている吹き出しにはデンマーク語で「俺達の海は綺麗に」と書かれてある。実際のところデンマーク語は全く知らないので、友人が「そう書いてある」と言ったのを信じている。いや、友人も「そう書いてあると聞いた」と言っていたのだったか。「伝聞上の世界に私達は生きている」と言ったのは誰だったっけ。彼女は考える。古い哲学者だったか、うちのあのどうしようもない妹だったか。

 ゴミを出す場所は彼女の住むマンションを出て道路を渡ったすぐ先にある。この道路を渡った、というのが厄介で彼女はいつもゴミ出しを実際以上に面倒に感じる。このあたり一帯は新しいニュータウンとして五年ほど前から注目を浴びていて、見渡す限り周囲はマンションばかり、昼間でも交通量というほどの交通量もないのだが、その一方というかそれ故というべきか時々信じられない様な速度で視界の隅から視界の隅へと飛んで行く車が存在して、しかもそれは時間を問わず早朝日中深夜いつでも現れるものだから、彼女は六時台のゴミ出しと言えど道路を横切る際は細心の注意を払うことにしている。

 無事道路を行って戻って二度渡ると、あるいは幸運にも週末だったり水曜日だったり奇数週の火曜日だったりしてゴミ出しの必要がないと、彼女は七時までごろごろと横になる。朝御飯さえ食べてしまえばそうやすやすとは眠れない性質なので、二度寝をしてしまう心配はない。彼女は、この時間帯が一日の中で二番目に好きである。この半時間弱の間を利用して、彼女はいろいろなことを考える。それは例えばポインタについてのことであったり、あるいは新しいクラスライブラリのことであったり、もしくはやはりポインタについてのことであったり、つまりはよりよいアルゴリズムについてのことである。そして、このあたりの時間から彼女はレコードを回し始める。聴くのは二枚組であるホワイトアルバムのどちらか一枚の、A面かB面のどちらかであることが多い。特に一枚目のB面は、針がレコードを突き通してしまうのではないかと心配になるほどに愛聴している。

 そうこうしているうちに七時になる。彼女はパンの粉が飛び散ったキーボードの前に再び座り、軽くティッシュで払うとプログラミングを始める。七時からの五時間は仕事で請け負ったプログラムを書く時間と、例によって前もって決めている。これを決めておかないと、いつまでたっても自分の熱中しているプログラムしか書けない。彼女が請け負う仕事は大手企業のネットワーク・セキュリティの骨幹に関わるようなものから、田舎の中学校の物理の授業で使うと聞かされた稚拙な教育ソフトまで大小種々様々。しかし残念なことに、どれもこれも定石というのが決まっているものばかりで、プログラミングというよりはスクリプティング、ライティングとでも言うべきものばかりだった。こういった雑多だけれどもありがちなプログラムを書くプログラムが書けるんではないかと、時々彼女が思うほど。

 つまり午前中は彼女にとって大抵は何の刺激もない時間であり、彼女は頭の中で別のアルゴリズムについて考えながら、使い古されたルーティンを頼まれ仕事の中に組み込んでいく。考えてみればこれが彼女の唯一の収入源なのだけれども、考えてみなければこの事実はすっかり忘れてしまっている。

 日によっては、もう少し刺激的な午前を迎えることもある。例えば、企業のシステム構築を一から依頼されたような時。彼女にとってコンピュータは専ら使う側でありハード面も含めたシステム設計は門外漢なのだけれども、時々何かの縁でソフト的見知からシステム構築のアイデアを聞きたいと頼まれることがある。そんな時はほとんどC言語のように素気ない日本語で書かれた企画書をこの時間に書いて、メールで送る。

 一度、そういった風にシステム構築に口を出していた企業から実際にお話をお伺いしたい、と言われて彼女が朝から電車に乗って出向いたこともある。何とかという金融系の会社で。担当の幹部と紹介された男はきっちりとしているけれども趣味の悪いスーツをぴったり着こなした四十前の針鼠のような男だった。男は瞼を閉じると消えてしまいそうな細い目をしていて、彼女は会議中ずっと相手の目が気になって仕方無かった。針鼠は最初にこんな感じのことを言った。

「結論から言うと、うちのシステム管理者になって欲しいのです」

 彼女はまず、結論というのは何の結論なのだろう、と考えた。そして、考えながらとりあえず「お断わりします」と言った。彼女は何とかしながら、というのが好きだった。脳味噌を効率的に回転させているような、アイドル時間を削減させているような気分になれるからだ。ものを食べる時は何か読みながらが基本であり、言うべきことが決まりきっているような場では喋りながら専らアルゴリズムについて考えていた。

「分かりました」とか「やはりそうですか」とか、要するにそのような意味のことを男は言った。彼女は人の話をちゃんと聞かない。だいたいは聞いているが、だいたい以上は聞いていない。言葉の意図するところが分かっていれば十分だと彼女は思っている。

 男は「それでは」か「ところで」と言った。そして「どういった人間にシステムの管理を任せられるかアドヴァイスでも頂けますか」という風なことを言った。「アドヴァイス」というのだけしっかり覚えている。より正確にその細い目の針鼠の発言を摸写するならば「アドゥヴァィス」であり、それはほとんど「アドゥォヴァゥィスゥ」と表記してもおかしくない程の勢いだった。彼女はその質問に「几帳面な人がいいでしょう」と答えた。

「というと」と男が言った。

「定められたことを定められた通りに落ちついて出来る人、ということです」彼女は言った。

「つまり?」か「要するに?」と男が言った。

「逆に考えるといいかもしれません。家のドアを閉め忘れたり、犬に吠えられたくらいで途端にみじめな気分になって身投げをしたくなったり、カセットケースの中に外に書いてあるのとは違うテープが入っているような人は管理者に向いてません」彼女はそう言って、最後の例はよくなかった、と早くも後悔した。普段あんまり人と喋らないせいか、機会があるとついつい喋り過ぎてしまう。特に幾つも例を挙げていくやり方が彼女は好きで、でも下手の横好きというやつで、どうにも巧くいかないのだった。カセットテープなんて。カセットは彼女の家ではレコードに次いで現役の音響メディアだった。例えばストーンズはほとんどカセットで持っている。古い友人がカセットケースに「スティッキーフィンガーズ」のジャケットを描いてくれたものもある。だが、社会ではカセットはもはや主要メディアではないことぐらい知っている。

 男はカセットについては何とも言わなかった。眉毛も動かさなかった。彼女としては笑ってくれたほうが良かったが、そうはしてくれなかった。後で思い至ったことだが、ひょっとすると男は彼女が話の時代レベル、男風に言うとレヴェル、を合わせたと思って、それで自尊心が傷ついたのかもしれない。いつだってそうだ。年寄りは古い言葉なんて知らないような顔をして、若者は意図もなくそれを使う。彼女の友人のピーターは、彼女より年下でまだ大学生だったが、ある時「今日のチョッキはイカすだろ」と突然言って、彼女を唖然とさせたことがある。

「ではつまり」か「要するに」と男が言った。

「鍵のかけ忘れをしない、犬に吠えられても動じない男が必要、ということですね」

「女でも構いません」彼女は言った。針鼠が触れなかった第三の反例につていは彼女も言及しなかった。

「全く」男が言った。そして「あなた以上の適任はいないのにな」とかいった風なことを言った。彼女は笑って、それからまたちょっとしたお喋りがあって、ちょっとした礼金を頂いて、彼女はまた電車に乗って十二時までには家に戻った。

 一日の中で唯一の仕事は、午前中で終える。だいたい一日五時間もプログラムを書けば、十分に暮らせるだけの収入が手に入る。十分というのは、つまりこのワンルームマンションの家賃が払えて、生活費に余裕があって、あまり多くはない欲しいものがそれでも欲しくなったときには必ず手に入れることが出来、それでもって収入の半分以上は将来の為に貯金しておくことが可能である、というぐらいのことである。

 世の中には何故か、このようにして収入を得ることに対して批判的な人間もいる。前述のピーターなどはその類の人間だ。ピュア・プログラマとでも呼ぶべき人種達である。彼らはこう言う。

「君はファンタジー世界の魔法使も同然だよ」ピーターの場合は、ここで一つ咳払いをする。そして、

「魔法使が人間に魔法を見せては金をせびるだなんて、ずいぶん夢のない物語じゃないか」と言う。

 彼女は全然気にしない。彼女にとってお金は世の中で一番大切なものではないが、それでも社会の重要な部分を占めるものであることは知っているし、理解しているつもりでもある。彼女はそもそも自分が魔法使だとは思っていない。彼女はただの技術者だと思っている。あるいは彼女は自分のことをせいぜい勇気のないライオン程度だと思っている。ピーター達は人間になれきれないブリキの人形なのだろう。どちらが良いのか比較は出来ないが。

 ピーター達はソースコードを売ることを認めようとしない。彼らにとってソフトウェアとはオープンライセンスであるべきだし、それ以外であることが理解出来ない。コードとは常に共有すべきものだと、心底信じている。彼女には理解に苦しむことだったが。

 だが、彼らは好んでそうしているのだ。食事をする金を惜しんでメモリーを買い、新しいハードに対応するフリーのドライバーを作るのに躍起になって寝る間も惜しむ。仕事といえば短期のアルバイトばかり。それらも彼らの崇高なプロジェクトの為なら喜んで放り投げる。全く、彼らはどうやって生活を維持しているのだろう。彼女は思う。彼らのおこずかい帳が見てみたいものだ。

 目覚まし時計が本日二度目の警告を鳴らす。彼女の生活スタイルは四クォーター、六時間で考えることが出来る。つまり、その警告は十二時丁度、第二クォーター終了の合図なのだ。ハーフタイムが始まる。彼女は席を立って軽く伸びをすると、スニーカーを履いて外へ出る。靴下は履かない。裸足好きというよりは、裸足ではいけない理由が見当たらないからだ。オーケー、確かに足の裏があんまりいい匂いではなくなるかも。でもそれがどうした?

 ランチを食べる場所も、もちろん決まっている。「グラスオニオン」という名前の店で、彼女の家から歩いて五分ほどの距離にある小さな洋食屋である。この店に通い始めてから、二年ほどが経つ。夜はそこそこ人気の店だったが、ランチには何故か人影が少ない。ニュータウンの住民は、朝に出発して夜まで帰ってこないか、あるいは一日中家に込もりきりなのか。「グラスオニオン」店長の木更津美晴も時々そんなことを考えるようだ。

「赤字じゃないんですか」店に通い始めて半年ほど経ったころ、彼女がふと気になってそう聞いたことがある。それまでの彼女と店長の会話といえば天気に関する話か、精算に関わる手続きについての話ぐらいのものだった。なんと言ってもプログラムかアルゴリズムのことを話している時以外、彼女は筋金入りの人見知りだった。だいたい人付き合いに積極的な在宅プログラマなんてものがいるのだろうか?そして、木更津の方と言えばこれはもう料理を作るのだけが楽しみで店をやっているような男であり、客との会話なんて全く興味がなかった。注文を受けるのも億劫なので社員食堂のように食券制にしようかと思ったほど。

「なにか?」木更津はいつも店の隅でもそもそと本日のパスタを注文しては何か難しそうな本を読みながら無言で食べる客に聞き返した。彼女の存在は、気になっていた。だが、自分から話しかけようとは思わなかった。何を話しかければいいのだ?「お味はいかがですか?」美味しいに決まってるじゃないか。・・・いや、控え目に言っても悪くはないはずだ。毎日来てるのだから。「どこにお住まいですか?」聞いてどうなる?「よくお見えですね」来るなと言ってるのか?

 だから、彼女が何気なしに、自分が人見知りだということも忘れて問いかけてきたのは、彼にとってもいいきっかけだった。彼女はもう一度、

「赤字じゃないんですか」と言った。同じ調子で。

「赤字でしょうかね」彼は言った。そして、

「そうだったかもしれない」と言った。それから、彼女を見た。何か返事をしてくれるだろうと彼は思ったが、返事はなかった。だから仕方なく、

「赤字でも大丈夫なんです」と言い、

「実家が結構な金持ちで」と言った。

 彼女は頷いた。なるほど、納得納得。そして彼女はまた興味を食事と読書に戻した。

 本日のパスタが本当に本日のパスタであるレストランが世の中にどれだけあるだろう?「グラスオニオン」の本日のパスタは、本物の本日のパスタだった。つまり、徹底的に日替わり。木更津は、同じものを二度とは出さなかった。それが彼の挑戦だった。アイデアに困って今までのレパートリーを少しばかり変形したパスタを出した日は、一日中後悔の念にさいなまされた。

 彼女がそんなシェフの苦悩をどれだけ読み取ってこの店に通っているのかは分からない。そういえばいつも違うな、ぐらいは食に疎い彼女でも思ったかもしれない。本日のパスタはキャベツと桜エビ。彼女は「Javaとその実装」を読みながら、パスタをするすると食べた。昼食において、これが彼女のライフスタイルだった。良いという人は彼女自身を含めて誰もいないにしても。

 ライフスタイルを乱されるとどうなるか?良い例が三日前にあった。

 その日ももちろん昼食はここ「グラスオニオン」で食べた。彼女が注文したのも同じく本日のパスタだった。その日はトマトソースに鮭を加えたパスタだった。違うのは、一人ではなかったということ。故に彼女は食事中、いつもの読書に代わって話を聞かされる羽目になった。

 ピーターは言った。

「認めよう。君の勝ちだよ。お金がいる」そして、咳払い。

 彼はオムライスを注文していた。根っからの子供だわ、と彼女は思った。ケチャップでハートマークを描いたりしないかしら。

「我々のプロジェクトは瀕死の状態だよ。サーバーのレンタル料も馬鹿にならない。皮肉なことにプロジェクトが巨大化して、トラフィックが増えてしまったものだから」彼はオムライスを大きくスプーンで切り分けると、そのまま口に運んだ。

「サーバーくらい自前で用意出来ればいいのだけどね。何にせよ、先立つものが」彼は続けた。

 彼女は黙って聞いていた。黙って、ピーターの話を聞いた。これは妹に教えて貰ったことだ。男の話は黙って聞くこと。彼らは意見を求めているのではない。ただ、聞いてもらいたいだけなのだ。

「それで、つまり」ピーターは咳払いをした。そして、彼も黙った。

 彼女はどうすべきなのか少し悩んだ。男が一通り喋って、黙ってしまった時にはどうすべきだと妹は言っていたのだったか。

「つまり?」彼女は尋ねることにした。

「資金が必要だ」ピーターは即答した。

「そうね」彼女は言った。

「そして、君は、つまり、言い難いことだけれども、君は、その、それを持っている」ピーターは言った。

 彼女は黙った。今度は別に男の気を引こうとした訳ではなく。

「協力して欲しいんだ」ピーターは続けた。

 平岡良平という名前でどうしてピーターと呼ばれるのか、彼女は知っている。臆病だからだ。自分では何も出来ない男。ここで我が聰明なる妹の至言を一つ。

「ダメ男が存在するのは、それを支えようとする女が存在がするからよ」

 彼女は怒っても良かった。だが、そうしなかった。断わっても良かったし、ピーターの管理するプロジェクトから全て抜けても良かった。カットアウト、シャットダウン。だが、そうしなかった。彼女が余計にしたのは、せいぜい次は自分の手で儲けるよう忠告したことだけ。

「そうするよ」ピーターは言った。笑って。

「いや、そうしようと思っていたんだ。ソフトウェアの性質によっては、その対価を頂いてもいいんじゃないかってね。今、新しいプロジェクトを考えている。最近流行りの類のウィルスに特化したワクチンの開発だ。いや、本当のことを言うともうほとんど完成してるんだ。あとは売るだけなんだよ。でも売るにも相手によってはジーンズじゃだめだ。資金がいる。そして、それが手に入った。これを巧く売れば、十二分にサーバーが整備出来るんだ」

 そしてピーターは言った。

「君も入ってくれるだろう?プロジェクトに。いや、君がスポンサーなんだからもう入っていると言うべきかな。プロジェクト名も君好みにしたつもりだよ。後でアドレスをメールする」

 そう言ってピータは帰った。レシートを残して。本日のパスタは750円。オムライスが650円だということを彼女は初めて知った。

 支払いをする時、木更津は言った。

「男前でしたね」彼は、ごく純粋にそう思った。彼女はちょっと首を傾げてみせたが、それでもピーターの外見がなかなかそれほど悪くないということは、認めざるを得なかったかもしれない。

 今日はそう言われることもなかった。やはり食事は一人でするものだと、彼女は思う。750円を払って、彼女は店を出る。この時点で時刻は大抵、十二時四十五分。第三クォーターが間もなく始まる。

 ピーターによる新プロジェクトの名前は「レボリューション1」だった。もっと他の所に気を使えばいいのにと、彼女は思う。思いながら、キーボードに両手を乗せる。午後一時になった。これからの五時間は、彼女の所属するプロジェクトのプログラムを書くことにしている。

 まず、今日はどのプロジェクトについて考えるかを考える。そして、一度決めたら夜まではそのプロジェクトに付き合う。だから、形だけ参加しているプロジェクトというのが、彼女に限ってはほとんどない。プロジェクトのほとんどで彼女は欠かすことの出来ないメンバーの一人であり、「セクシー・セディ」や「ハニー・パイ」といった幾つかのプロジェクトでは彼女がリーダーだった。

 彼女はプロジェクトを管理しているデータベースを開いて、今日の標的を決める。昨日チェックした時点から新規に決まったことや、新しい問題、変更点やバグ報告などがプロジェクト毎にディスプレイに踊る。

 ふと、彼女はディスプレイの一番下に書かれたメッセージを見る。件の「レボリューション1」関連のメッセージだ。タイトルは「リリース」、発言者はプロジェクトリーダー、つまりピーターだ。

「レボリューション1をリリースすることが出来た。僕にとっては、初めての商用プロダクトだ。フリーの時から支えてくれたみんなのお陰で、方針を変えてすぐにこうして販売することが出来た。これがネットワークの持つスピードというポテンシャルの」うんぬん。

 彼女は溜息をつく。鶏のとさかにでもなった気分だと、彼女は思った。「レボリューション1」はピーターにとっては初の商用プロダクトとして思い出に残るかもしれないが、彼女にとっては初めて一行もコードを書かずにリリースされたプロダクトとして記憶されるだろう。プログラムはもう出来上がっていたのだ。ただ、初期投資の資金が必要だっただけで、そして利用されただけなのだ。

 彼女は少し泣きたくなった。まぎれもなく、悲しい気分と言える。

 そのメッセージをディスプレイから追いやるように、彼女は別のプロジェクトを選択した。「ホワイトルーム」という名前のプロジェクトで、プログラミングの著作権を検討している。つまり、あるプログラムが特定の誰かによって書かれたもので、それ以外の人の手によるものではないことを証明する仕組みを考えるプロジェクトだ。

 このプロジェクトでは、まだ具体的なプログラミングにまで至っていない。皆、まだ試行錯誤の段階だった。でも、それが今の彼女には丁度いい。彼女は効率的思考な海から逃れて、独創的思考の池で泳ぎたかった。

 ピコン、と新しいメッセージが彼女宛に到着したことを示す音が鳴った。彼女はメッセージを読む。彼女の古い友人からだった。名前はフィレンギ。

「また新しいリリースだね。おめでとう。これが幾つめ?」

 彼女はキーを叩く。五文字分だけ。

「名ばかりよ」そして、彼女はそのメッセージをフィレンギに送る。

 肩をぐるりと回転させると、ぽきりと鳴った。彼女は「ホワイトルーム」のことを考える。著作権、コード、暗号化、共有、セキュリティ、オブジェクト、あるいはカプセル化。それだけだった。彼女はまともに動かない自分の脳に苛立った。目を閉じるとピーターのことが浮かぶ。全く、考えたいときに考えたいことが考えられずに考えたくないことを考えたくないときに考えてしまうなんて、なんて出来の悪い脳味噌なんだろう。

 彼女は立ち上がり、冷蔵庫を開ける。とりあえず牛乳だ。それからのことは、それから考えようと、彼女は思う。

 ピコン、と新しいメッセージが彼女宛に到着したことを示す音がまた鳴った。

「またフィレンギね」と彼女は声に出して言い、それから少し後悔した。一人で生活をしていると一人言が増えてしまうのは仕方無いことだと、彼女は思う。それでも、彼女は自分の独り言が嫌で仕方無かった。妹が知ったら大喜びするだろう。

「お姉ちゃんでも自分の中に自分で管理出来ない世界があるのね」

 ある。多いにある。彼女は認める。認めてどうなるというものでないが、せめて潔く認めようと、彼女は思う。

 メッセージはやはりフィレンギからだった。

「それにしてもグッドタイミング」

 彼女は考える。それにしても、のそれとは何なのだろう?考えながら、彼女はもう返事を書いていた。やはり五文字で。

「何のこと?」

 返事はすぐに来た。

「そうかニュースは毎朝見るだけだっけ。ジュリアっていうピカピカの新しい」

 メッセージはそこで終わってた。彼女は何か書くべきか少し悩む。悩んでいるうちに、続きが来る。

「ウィルスが登場したもんで大変な騒ぎになってるんだけど、何とその一年生ウィルスもレボリューション1なら防げるらしくって、何でもあのプロジェクト」

 またメッセージは中途半端に終わっていた。そして、またすぐに続きが来た。

「の面子に言わせるとあそこのリーダーが脆弱性のあるポイントを前持って防ぐルーティンを持たせてたみたい。やるね!」

 彼女は、呆気に取られる。これはどういうことだろう。彼女は考える。今度こそ考えたいことが考えられますようにと考えながら。

 時計が鳴った。午後六時。いつの間にそんな時間になったのだろう?彼女はまた考える。思考の沼で潜水を始めてしまったみたい。沼の底は光も届かず、時間の経過も分からない。

 そんなことを考えながら、彼女は食パンをトースターに入れた。夕食はトースト。気分によってはヨーグルトが付いたり、あるいはトーストを切らした時は近くのスーパーに買いに行ったついでにヤキソバを買ったり、サラダを買ったりもする。彼女の三食の中で一番自由度のある食事だ。何か生活必需品が少くなっていたり、あるいは洗濯物が貯まっていたりした時はこの時間を利用して買物に行ったり、クリーニングに行ったりもする。洗濯は決して自分ではしない。そもそも彼女の家に洗濯機はない。

 今度は食パンにバターは塗らない。彼女はただ噛りつく。熱いパンのへりが、舌を少し焼く。彼女は考える。

 七時からは、やはりプログラムを書く。このクォーターは彼女の全く個人的趣味によるプログラムを書く。

「プログラム、プログラム、プログラム。全く、よく正気を保てるわね?」妹はよく言う。

 それは違う、彼女は言う。彼女は同じことを一日中行なっているのではない。それは例えば仕事で会社の階段を登るのと、旅行に行った時に駅の階段を登るのと、とにかく外出して帰宅する時に家の階段を登ることの違いのようなものだ。

「会社に勤めたこともないし、最近は旅行はおろか外出もまともにしないくせに」妹は言う。彼女は、今度は認めざるを得ない。

 もちろん、彼女は三つのプログラム用時間において、この最後の五時間が一番好きだった。この時間を待ち望みながら、一日を過ごしていると言ってもいい。つまりは、ショートケーキ理論。一番美味しい苺は最後に食べる。

「ブラックバード」もこの時間に生まれた。今、彼女が取り組んでいるのは、ソフトウェア間の設定を共有する設定の設定ソフト。名前は、取りあえず「オブラディ・オブラダ」ということにしている。

 彼女は「オブラディ・オブラダ」の書きかけのソースをエディタで開いた。だが、やめてすぐに閉じた。彼女はかわりに、昼過ぎにみたプロジェクトのデータベースをもう一度開いた。

「レボリューション1」のプロジェクトには多数のメッセージが投げられていた。「おめでとう!」「ありがとう」「大儲けだ!!」「羨ましい奴」「みんなのお陰」等等。

 彼女はプロジェクトにログインする。彼女のIDはPIGGIES。だが、彼女が入力したのは別のIDだった。

 PETER

「パスワード?」と画面に表示される。彼女はふぅ、と一つ深呼吸をする。そして迷いなく入力する。

 RABITT

 サーバーがログインを許可し、新しい画面が表示される。全く、こんな稚拙なパスワードの持ち主がよくセキュリティだの言えたものね、と彼女は自分でも聞こえないくらい小さく呟く。

 このパスワードを彼女がピーターの部屋で発見した時は何かのジョークかと思ったほどだった。あの狭くて雑然とした部屋。彼女は思い出す。コンピューターとベッドしかないあの部屋。やけに天井の低い、壁は薄くて隣の部屋で見ているのであろうテレビの音が聞こえてくる、こちらの声ももちろん隣の住人に聞こえてるであろうことを覚悟させられた部屋。だいたい、彼はそのパスワードを自分のディスプレイに付箋で貼りつけていたのだ。これで悪用するな、という方が間違っている。いや、しかもこれは悪用じゃない。彼女は思う。

 彼女は手早く「レボリューション1」のページから彼の情報を探し出す。検索、「ジュリア」。答えはとても簡単に見つかる。コンピューターは誰にとっても平等だと、彼女は改めて思う。まさにそれが彼女の好きなところなのだれども。

 ソースを彼女は書き換える。そして、コンパイル。その間にメッセージを書く。ピーター名義で。

「新しいソフトウェアをリリースするよ、独断で悪いけれども。ワクチン・プログラムだ。機能はレボリューション1と同じ。そしてフリー。ソースも公開する。やはりソフトウェアはオープンライセンスでなければ」うんぬん。

 この新しいソフトウェアの名前は?決まってる。彼女はまた呟く。「レボリューション9」。

 0時からの一時間は、ゆっくりとお風呂に入る。この時間が彼女は一日で一番好きだ。またしてもショートケーキ理論。風呂は年中42度。少し熱いめの中に左足から入り、浴槽の中で頭を洗う。そしてゆっくりと肩までつかりながら、今日一日のことを考える。ちょっとした反省会である。今日の反省点は?なし。パーフェクト。そして彼女は浴槽から出る。体は左足、右足、右腕、左腕と洗ってから胴体、顔は最後と決めている。彼女のルールを書いたバイブルは、恐らく本物のバイブルよりぶ厚く、彼女の本棚に並ぶ「オペレーティングシステムプログラミング・各種ライブラリの導入への手引き」に匹敵する重さだろう。泥棒が入ったらこれで頭を殴りつけてやろうと彼女は思っている。あの本なら、頭蓋骨にひびくらい入れることが出来そうだ。

 風呂から上がると新しいシャツと綿パンを着こみ、そのまま布団に直行する。夢はほとんど見ない。ただ、明日が楽しみだわ、と思いながら彼女は目を閉じる。

 

2002/4/5 - 2002/5/5

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この文章は小関悠が個人の立場で書いたもので、所属する組織などの立場や意見を示すものではありません。特に明記のない限り、この作品はフィクションです。

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