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半月

 四年半付き合っていた恋人と別れた。別々の高校を同時に卒業した頃、何が契機という訳でもなく付き合い始めた仲だった。「付き合うのも悪くないんじゃない」と、恋人になる人間は言った。極端に断定形を避ける人間だった。それ程長く続くと思っていた訳でもなかったが、かといってすぐに終わるような気もせず、気付けば四年半が過ぎていた。

 高校卒業後、私は地元を離れ、北海道の大学に通うことになった。第一希望では無かったが、悪い大学でも無かった。恋人は私の大学のすぐ近くにある別の大学を、これは偶然、受験したのだが、これは偶然か、合格しなかった。「こういうこともあるみたい」と恋人は言った。私は一人暮らしを始めた。私達は打ち上げられたロケットと燃料タンクみたいに、すぐに離れ離れになったのだ。

 恋人は特徴らしい特徴も無い人間で、私でさえ時々存在を忘れてしまいそうになることがあった。窒素みたいな人間だった。無害、無臭。鉄道を見るのと、暗い詩を書くことが趣味だった。双子で、自分を出来の悪い方だと自称していて、出来の良い方と間違えられるのが嫌いだった。比較されるのにはもう慣れていた。「あなたは月かもしれない」などと、唐突に思い付きの比喩を言うのが好きで、比喩の説明をするのが嫌いだった。

 私の毎日は、物凄い速度で過ぎ去って行った。それは恋人の存在とは関係無く。私は地球を回るロケットのように、ただ遠心力と慣性に身を任せ、ぐるぐると毎日を繰り返した。一年があっという間に経って、恋人は再受験にも失敗した。連絡が来ないので私が電話をすると「珍しい」と恋人は言った。そして結果を言おうとせず、ただ「詩人になろうかな」と呟いた。

 その年の夏に私は一度浮気をした。悲しいくらいに何も感じず、私には罪悪感とかいうものが備わってないのかと不安になった。恋人は二週に一回くらい電話をしてきて、新しい詩を聞かせてくれた。一度、恋人が浮気性を嘆いた詩を書いたことがあって、私は自分が何と感じるかを観察した。残念ながら罪悪感は、私の体からは湧き上がって来なかった。そのかわり、私は露呈するはずのないことが露呈する不安と、何を対象にしているのか分からない嫉妬を感じた。私は多分、私自身に嫉妬していたのだと思う。手際良くやり過ごし続けている私自身に。

 その恋人の詩は「半月」という題だった。「あなたは月のようで」恋人は言った。「美しく」「裏側が見えない」。

 その年の秋、恋人は大学受験を諦めた。重力に引っぱられるかのように、真っ直に。恋人は言った。「出来の良い方は毎日楽しいみたい。大学も、サークルも、なにもかもね」それは私に向けられているようにも聞こえた。私は何も答えられずに、恋人が電話を切るまで無言だった。

 恋人は私に電話をしなくなった。せいぜい半年に二度くらい、前触れも無く連絡をしてきて、そんな日は半日ほど喋り続けた。「空みたい」恋人は突然言った。「何が?」「あなたが」「どういう意味?」私は、恋人がその問いを嫌うのを承知で言った。「空みたいってことだよ」恋人は言った。「青いとか、広いとか、遠いとか」最後の言葉が真実なのだろうなと、私は勝手に思った。

 気がつくと、私から電話をするようになっていた。用も無く、朝早く、あるいは夜遅く。恋人はだいたいいつでもすぐに電話に出た。「どうしてた?」私が聞くと恋人はいつも「何となく」と答えた。「最近どうしてるの?」とは恐くて聞けなかった。自分の毎日を話すのは、もっと気が引けた。私は浮気の常習犯となりつつあったので。結果、私は電話をかけておいて、話すことも無く、ただ恋人が、ぼつぼつと自分の生活を話したり、新しい詩がある場合は、読んでくれたりした。

 四年の間、私は一度も実家に戻らなかった。恋人とは、一度も会わなかった。「深夜特急にでも乗って会いに行こうかな」と言うことはあった。私はそれを望んでいるのか、あるいは望んでいないのか、自分でもよく分からない。よく分からない返事を、私はした。「面白そう」とか、まるで他人事みたいに。

 私は北海道の企業に就職した。就職前にようやく、一度実家に戻った。父は目を合わすなり、何も言わずに泣いた。恋人には事前に伝えておいたのだが、返事は無かった。だから私は、恋人に会わないまま北海道に戻った。まるでそれが当たり前のように。

 秋の終わりに、私は就職してから初めて恋人に電話をした。恋人からの電話は一度も無かった。私達は、最早お互いのことを忘れているも同然だった。電話が繋がるまでの間、「久し振り」と私は言うかどうか迷って、結局言わないことにした。しかし「もしもし」という恋人の声が聞こえてきて、私が咄嗟に言った言葉は、「久し振り」だった。それだけしか言えることなど無かったのだ。

「久し振り」と恋人も言った。「どうしてたの?」「うん」私は言った。「忙しくて」などと、馬鹿なことを。「あのね」恋人は言った。「話したいことがあって」私は、遂に来たと思った。何が来たのかは分からないが、何かが遂に来たのだ。例えば、慣性だけでは恋愛は成立しないとイタリアの物理学者が発見したとか、地球を周り続ける衛星が大気圏に傾いて燃え落ちたとか。

「あなたの恋人は死んだ」恋人は言った。一瞬何を言われたのかよく分からなくて、それからしばらくは何を意味しているのか分からなくて、私はただ黙った。「正確に言うと失踪したんだ。でも生きているとは思えない」「いつ?」私は言った。「もう随分、随分前の話になるかな」「いつ?」私は言った。「いつかな。とにかく途中から、あなたの恋人は電話に出られなくなった。だから今お話ししてるのは、もう一人の方というわけ」「いつって?」私は問う。「そんなに、大きな問題じゃないよ」恋人、あるいは恋人ではない人間が言った。「大きな問題じゃなかったでしょ」

 私は電話を切った。それから半時間黙って部屋に隅に座り、その後で友人に電話をした。高校の同級生で、携帯に電話番号を登録したけれど一度もかけた記憶の無い相手。「誰かと思ったよ」友人は言った。「失踪したって本当?」私は彼の言葉を聞かずに言った。「恋人だったんだけど」友人は、何故か笑って言った。「付き合ってた?本当に?」それから急に真面目な口調になって「いや、でも本当の話だよ。あれは、もうだいぶ前になる。双子の、ね。そう言えばどっちと付き合ってたんだ?」「家にいた方」私は言った。「鉄道が好きで、詩人を夢見てた方。断定が嫌いで、受験に失敗した方」友人はまた笑った。「そりゃ参考にならないな。二人ともそうだから」

「二人とも?一人は大学生でしょ」私。「いやいや」友人は否定する。「そりゃ誰かと勘違いしてるな」私は苛々して、名前を言った。「うん、そっちか。いや、どっちがどっちかなんてもう分からないけどね」「失踪って具体的に何なの?いつの話?」私は重ねて聞いた。友人は答えた。「いつだったかは本当に忘れてしまったよ。とにかくいなくなったんだ。自殺をほのめかす遺書と共にね。新聞を調べれば分かるんじゃないかな。二年くらい前だよ、だいたい。結構な騒ぎになったんだけどな。浪人生の双子、失踪するってね」

 夜、月を見上げると、とても遠くに見えたり、逆にとても近くに見えたりすることがある。「あなたは月のようで」恋人の声が聞こえる。「まるで半月のようで」「手が届かなくて」「届かなくて私は」私は、どうしたのだったか。今となっては、忘れてしまった。

 それから、私は恋人に電話をしていない。かかっても来ない。

 

2003/02/01 - 2003/02/02

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このページにある全ての記述は、特に明記のない限りフィクションです。また著者である小関悠が個人の立場で書いたもので、所属する組織などの立場や意見を示すものではありません。
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