二十代の終わりごろ、よく笑う仕事を請け負っていた。大学時代の先輩に誘われたんだ。テレビ番組の収録現場とか、コメディ映画の試写会とか、お笑い芸人のイベントとか、そういうところに客として参加して、大きな声で笑うのが業務だよ。
サクラとは違うんだ。サクラってのは、面白くもないものを面白そうにして騙す人間のことだろう。私たちはちゃんと、面白い仕事だけを選んで、面白いものについてだけ笑っていた。笑うためには、環境が必要なんだ。例え面白いと思っても、誰も笑っていないところで一番最初に笑うには勇気がいるだろう。そういう時に誰かが率先して笑ってくれると、他の人も笑いやすくなる。私たちがやっていたのはそういう、笑うための環境を整える仕事なんだ。
楽しかったよ。なにしろ本当に笑ってばかりいたからね。本当に面白いものばかり観ていたし。嫌なこともあったはずなんだが、一つ一つの思い出を振り返ってみると笑っている場面しか思い浮かばないんだから、まあ記憶とはそういうものなんだな。笑う角には、って言うのはそういうことなんだろう。
誘ってくれた先輩も面白い人だった。竹林さんという本当に頭のきれる人で、普段は大人しいんだけれど、ひとたび口を開くと溢れんばかりのジョークが飛び出てくるんだ。きっといつも寡黙に世の中を見つめながら、頭の中ではジョークのことばかり考えてるんだろうな。竹林さんは会計士かなにかの資格を持っていたのに、仕事でやさぐれている時に飲み屋で知り合った人から笑う仕事の話を聞いて、その場で転職を決めたんだ。
当時は私も何だったか他の仕事をやっていたんだが、竹林さんから一緒にやらないかと誘われて、躊躇せずに乗ったよ。なにしろ竹林さんが転職するくらいなんだから、面白い仕事に違いないと思ったんだ。
二ヶ月くらいで色々な場所に行った。北は福島から南は長崎まで、かな。地方のよく分からない組織が開催する、よく分からないイベントが多かった。だいたい若手のお笑い芸人が出てくるんだけれど、観客は年配の人が多いから、どう笑えばいいかなかなか分からないんだ。それでも、私たちがうまく笑えば、そこから爆笑が生まれた。笑いは伝染する、って言うだろう。それは本当だ。そして、伝染して悪いことはなに一つないんだ。私たちは媒介だった。色々な場所で笑いが必要とされているんだと感じたよ。
もちろん、なんでも笑えばいいってわけじゃない。当然のことながら自分だけが笑っても仕方がないし、あまりに早く笑いすぎてもついて来れない人が出てくる。それに、無理に笑うとすぐにバレるんだ。羊飼いみたいなものだよ。うまく先導しなければいけない。みんなが笑いたがっていると感じた瞬間に笑えた時、そして多くの笑いが生まれた時、何事にも変え難い瞬間だったな。とにかく、いい仕事だったんだ。
稼ぎも悪くなかった。よく儲かった数少ない仕事のうちの一つかもな。竹林さんは交渉がうまいんだ。彼は私たちが笑うことでどれだけの効用があるのか、ちゃんと見積もる。笑いが何倍になって、そのためにイベントの評判が何倍よくなる、とかなんとかね。みんな見積りに納得してくれたし、依頼にはリピーターも多かった。もっとも、自分でも稼ぎに見合っただけの働きはしたと自負しているよ。
しばらく続けてから、もしかすると、これは天職なのかもしれないと思ったよ。それでも二ヶ月で辞めた。誰あろう、母さんが反対したんだ。この仕事のせいで、普段の会話の中でも無理に笑うことが増えたって言うんだな。私に言わせれば、断じてそんなことはなかったよ。作り笑いはこの仕事では許されない。そもそも、必要ない。あくまで笑いたいところで笑っているだけなんだから。何度もそう説得したんだが、母さんはそう感じたんだ。先入観があったのだと思う。疑心暗鬼になると、なんだって作り笑いに見えるものなんだな。この仕事がどれだけ素晴しいか、三日くらい言い争った。それでも、母さんは絶対だった。
竹林さんには謝ったよ。彼は今も一人で仕事を続けているはずだ。今でも時々テレビ番組を観ていたら、スタジオから彼の笑い声が聞こえてくることがあるよ。聞いているだけで幸せになるような笑いだ。全く、これほどいい仕事を見つけるのがどれだけ難しいことかと思うけれど、いい夫でいるのはそれ以上に難しいんだ。
2008/12/21 - 2009/01/04
この文章は小関悠が書いた。特に明記のない限り、この文章はフィクションであり、私と関係がある、もしくは関係のない、組織や団体の意見を示すものではない。
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父の仕事:仮面を着る
何年前かな。街を歩いていたら、モデルにならないかって、女性のスカウトに声をかけられたんだ。二十歳を過ぎたころくらいだったと思う。スカウトも同じ年くらいで、おまけに原田知世似の美人だった。とりあえず話は聞くことにしたよ。いわく、彼女の父親はブティックを経営しているのだが、なかなか繁盛しない。品物は良いはずなので、とにかく注目を集めたい。そこで売り物を日常的に身に付け、街を歩くことで宣伝をして欲しい、ということ。給料が売上次第の歩合制というのは気に食わなかったけれど、なにしろ当時はひどい金欠だったし、仕事といっても歩くだけだったし、原田知世は昔から好きだったから、やると答えた。そうして、その足で連れて行かれたのが目黒の仮面屋だったんだ。……
父の仕事:人を数える
お金がなくて実家にいた時はだいたい仕事もせず毎日ぼんやりしていた。衣食住が完璧に保証されていると働こうという意思がなくなってしまうんだな。レイストームってゲームをよくやったよ。実家にはセガ・サターンがあったんだ。もちろん私が実家に置いていったんだけれど。……
父の仕事:ラブレターの代筆
どうしてラブレターの代筆を頼まれるようになったのか、はっきりとは覚えていないんだ。友人たちとの酒の席で、過去にどんなラブレターを書いてきたかという話になったんだと思う。私がつい自作を紹介してしまって、そうしたら予想以上に持ち上げられてしまって、確かそんな流れだった。……
「砂の城」パーベル・クロチェフ
パーベル・クロチェフは90年代にロシアで活躍したサッカー選手、ストライカーである。1970年ナホトカ生まれ。地元のFCナホトカ・ユース時代は取り立てて見所のない選手であったが、187センチの長身を当時ナホトカの監督に就任したばかりの知将チチに見込まれ、88年にソビエト連邦一部リーグ(二部に相当)所属のトップチームに昇格。88年シーズンの第三節、デビュー戦となったニコライ・モスクワ戦で開始三分にPKを獲得して勝利に貢献して以来、ナホトカのエースとして長年活躍する。長身のわりにポストプレーを苦手とし、決定力に課題を残すものの、試合終了まで走り回るスタミナと、長い足を大きくストライドさせて走るスピードには定評があり、多くのファンを魅了した。91年シーズンにはリーグ得点王。PK獲得技術に優れ、この年の32ゴールのうち22ゴールがPKによるものである。ペナルティ・エリアでディフェンダーと衝突した細い体が大きく崩れ落ちる様は「砂の城」と呼ばれ、相手チームに恐れられた。当時は、60年代のナホトカに所属し、PKだけで100ゴールを決めた故レフ・ミコロビッチにあやかり「レフ二世」とも呼ばれた。インタビューでPK獲得技術について問われたクロチェフは、十代の短い時期に20センチ以上も身長が伸びたことを明かし「だから私の体はバランス感覚が崩れており、ポストプレーが不得手なのも、また倒れ方に独特のリズムがあるのも、このせいかもしれません。何事にも表裏があるのです」と説明したといわれる。92年シーズンにも27ゴール(うち24ゴールがPK)を決めると、この年チームを首位に導き、ロシア・プレミアリーグ昇格に大きく貢献。93年にはロシア代表にも選出される。同年モスクワで行われたイタリアとの親善試合に途中出場し、後半ロスタイムにバレージからPKを獲得する活躍を見せるも(ゴールはイトリビッチ)、代表としてのキャリアはこの一試合に留まった。96年シーズンには十節のロコモティフ・モスクワ戦でPKだけで3ゴールのハットトリックを達成。チームも単独首位となり、リーグにナホトカ旋風を巻き起こす。続くゼニト・サンクトペテルブルク戦でも5ゴール(うちPKで4ゴール)を決めたが、5回目のPK獲得の際に両足をすくわれて腰を骨折、シーズン絶望の大怪我となり、チームの成績も急降下、一部リーグへと降格してしまう。クロチェフには「一年間転がるだけの選手」といった批判も多いが、昨年発売されたDVD「クロチェフ全ゴール集~砂の城~」を見ても明らかな通り、獲得したPKはほとんどが妥当なものであり、彼のゴール前でのバランス感覚と、相手ディフェンダーのいやがる所にポジショニングを取る嗅覚から生まれたものである。また、その誠実で謙虚な人柄は彼に苦しめられた他チームのファンからも一目置かれていた。クロチェフは一年のリハビリを経て97年シーズン半ばに怪我から復帰。しかし完調にはほど遠く、この年のゴール数は9、PKはゼロであった。99年シーズン前に監督交代を巡るゴタゴタから、かつて彼を指導したチチを追ってフランスのレンヌに移籍。スーパーサブという扱いながら10ゴール(うちPKが7ゴール)というまずまずの成績を残す。以降、オセール、ナントとフランスを渡り歩くが、目立った成績は残せず。03年シーズンにナホトカへ復帰。スピードの衰えは隠せず、中盤で起用されることや、PK獲得を狙って試合終了直前に投入されることも多かった。04年シーズンにはPKを失敗することが目立つようになり、シーズン終盤からは他の選手に譲るようになる。チームメイトのロドリコ・チェスはこの年24ゴールで得点王となったが、うち13ゴールがクロチェフの獲得したPKであることは有名。05年シーズン終了を機に引退。半年後にロシア代表対ナホトカという形式で行われた引退試合でも前半と後半に一つづつPKを獲得し、有終の美を飾った。「私は一流ではなく、二流でさえないかもしれないが、何度かファンを喜ばせることはできた」という彼の引退時のコメントは、一部リーグが中心であったとはいえ、ソ連/ロシアリーグで通算200ゴールを決めたストライカーとは思えないほど慎しいものである。解説者を経て07年よりナホトカ・ユースのコーチ。ファンからは将来のトップチーム監督就任を嘱望されている。……