テレビ、パソコン、スマートフォンから流れてくる、止まることのないニュース、トレンド、ゴシップ……増え続ける情報の波にどう対処すべきか、その難問に答えたのが記憶のデジタル化だった。バイオメモリー社が側頭部に埋め込むメモリーチップを量産化したことを皮切りに、記憶をデータとして保存することが急速に一般化したのだ。なにしろ一度保存しておければ忘れないし、検索も簡単にできる。もう元には戻れない。
初期のメモリーチップは高々数十ギガの容量だったが、激しい市場競争は自然と多機能化、大容量化へと繋がる。目に入るもの、耳に入れたものはもちろん、その場では目にしなかったことまで、全てをデジタル化して後で確認できる、いわゆる全入時代が到来する。そうなるとボトルネックは、大量のデータをさばく処理能力のほうだ。つまり、いったんすべてのデータを取得しておきつつ、そこから何を「発見」するかが肝になる。問題は、高性能プロセッサを載せようにもメモリーチップの大型化には限度があること。クラウド化に繋がるのは当然の帰結だった。
この業界に最後発として参入したライブクラウド社は二つの革新をもたらした。一つは前述した通り、メモリーチップのクラウド対応。チップ側に処理能力がなくても、あるいはメモリーの保存容量さえ限定的でも、どんどんクラウド側へ転送することで補うことができる。人が見たものをクラウドが処理し、発見したものを人にフィードバックしてくれる。全処理時代のはじまりである。チップはどんどん小型化し、廉価になった。
もう一つの革新は非侵入型を実現したこと。耳の裏に貼るだけで脳波をスキャンし、データをクラウドに転送する。簡単に言えば、シール一枚で記憶力が並外れて良くなるのだから、メモリーチップを気味悪がっていた人達も躊躇う理由はもはやない。精度やデータ量はバイオメモリー社の埋め込み型より劣るが、結局みんな過去の記憶をそれほど深く参照するわけではないのだ。
ギークやビジネスパーソンだけでなく、今や老若男女、チップを付けない人間を見つけるほうが難しかった。あわせてライブクラウド社はチップをこれまでの売りきりモデルから、通信量やサービス内容に応じた月額課金モデルへと移行し、これは同社の莫大な収益に繋がった。先週のことまで振り返られれば十分という人はフリー。一年前のことまで振り返りたい人は一月十ドルのプレミアムライセンス、全てのデータを常に他のデータソースと参照しあいながら分析し続けたい人は価格応相談のプロライセンス、というわけ。
そうして私達は超人になった。本をぱっとめくっていけばいつまでも覚えていられるし、友達や同僚とは無限に世間話をできるようになった。なにしろ知っていることはいくらでもあるし、話せば向こうもいつまでも覚えておいてくれるのだ。私達はかつてなく他人と繋がり、一体となることができるようになった。
そんなライブクラウド社が今朝倒産したのに、騒いでいる人はほとんどいない。なんでもハッキング被害にあって、多くのデータが盗まれ、おまけに元のデータはサーバーから消されてしまい、復旧できなくなってしまったという。誰もそのことを騒がないのは、ライブクラウド社にとっては不幸中の幸いだった。なにしろ自分たちがライブクラウドのチップを使っていることさえ忘れてしまったのだから。過去を失ったとき、過去を失った人間はその事実さえ認識できないのだ。
だから私が言えることはただひとつ。玄人は今でも埋め込み型バイオメモリー製チップを使って、自宅サーバーにバックアップを置くのが一番ということだ。
2015/04/01 - 2015/04/27
この文章は小関悠が書いた。特に明記のない限り、この文章はフィクションであり、私と関係がある、もしくは関係のない、組織や団体の意見を示すものではない。
星新一賞入選のロボット子育て小話「キッドイズトイ」はAmazon Kindleにて100円で販売中。
僕のウォッチ
取引先との接待カラオケがようやく終わろうかという午前ゼロ時、ウォンウォンというサイレン音が鳴り響く。僕のウォッチだ。調子良く80年代のヒット曲を歌っていた先方の上役が真顔に戻る。「どうしたかね」と隣の課長が僕を睨んだ。ウォッチは有機ELディスプレイを派手に光らせている。ディスプレイの表示はこう。「就寝時間になりました」。……
ロボット上司問題
上司がロボットになって三ヶ月が経ったが、これまでのところこの試みは大成功だったと言わざるをえない。もちろん、上司がロボットになったというのは、人間がロボットに変身したわけではない。人間の上司、この会社に転職してきたぼくの面倒を三年にわたって見てくれたアウレーリオという陽気なイタリア人は、ある日、朝一番にとつぜんリストラを言い渡されて会社を去った。……
ゲームのない日
朝起きると、ちょうど息子が着替えをはじめているところだった。「おはよう」と私は言う。「起きるの、パパが一番遅かったよ」そう言って子供は笑う。まだ小学一年生だというのに、すっかり大人きどりで得意気だ。私は枕元に置いていたスマートフォンに目をやった。午前八時、五分すぎ。今月最初の日曜日。……
食べられログ
二日酔いの朝、スマートフォンをチェックしたら、食べられログからの通知があった。昨日の居酒屋からの評価だった。細かく読まなくても分かる。「★★☆☆☆」、星ふたつだ。これで点数はまた下がった。2.57。それが僕の客としての点数だ。2点台に落ち込んで、もう半年が経つ。……