老人が小さな地図を差し出したのは、旧首都の第五都市を抜け、遷都を終えたばかりの第六都市へと歩く道中でございました。地図は道行くすべての人に配布しているようで、もちろん私もその一部を受け取ったのでございます。新しい第六都市は私の地図には影も形もありませんでしたし、それは遷都に伴い家や仕事を移しはじめた多くの人達、そしてこの大移動を見届けに訪れたさらに多くの旅人たちも同じでしたでしょう。道行く誰もが老人の地図を手にし、それを見つめながら歩いていたのでした。
地図にはじめて違和感を覚えたのがいつであったかといえば、ずいぶん後のことだったと認めざるをえません。地図と世界が一致しないとき、我々は愚かにも、まず世界を否定するのです。すなわち、別の路地を見ているのかもしれない、東西南北を誤ったのかもしれない、この建物の名前が地図と看板で異なるのは別の言語を用いているからかもしれない、と。あるいはこうも考えました。いま目の前にそびえ立つ灯台が地図に見当たらないのは、地図がすこしばかり古いせいではないかと。しかし少し調べれば、その灯台が遷都の前から存在し、あたりのどの建物よりも古いと分かるでしょう。そして迷わぬようさらに注意深く歩けば、世界にあるものが地図にないだけではなく、地図にあるものが世界にないことにも気付くでしょう。そうすると今度は地図が新しすぎるのではないかと考えるのです。つまりいくつかの建物は建設のはじまる前から地図に名前が載せられており、あの古い灯台は反対にこれから取り壊される運命なのではないかと。そうして旅人たちは地図に存在しない道を歩き、世界に存在しない公園を横切って、地図にも世界にも存在しない宿に帰っていくのです。
正しい地図を探す試みは、すぐに頓挫いたしました。なぜならこの都市で地図とはあの老人があらかじめ配るものであって、それ以外のものはどれほど正確に見えても地図とは呼ばれず、それはあくまで家に飾ったり教科書に載せたり手帳に挟んだりするものであって、街を歩くときに足を止めて確認するものではないからです。もちろん、あの地図を改めることも出来たでしょう。緻密な旧首都の地図職人を呼ぶこともできたかもしれません。しかし次第に我々は地図の間違いを正すことよりも、その間違いを理解した上で歩くことを学び、地図上の異なる名前で建物を呼ぶ楽しさを知り、そして存在しない地図の都市へと思いを馳せることに馴染んでしまったのです。
けっきょくのところ、地図とはかつて地図が存在しなかったときと同様に心の中にあるもので、あの小さな地図はその心を映し出したものに他なりません。いつであっても旅人たちが望んでいるのは地図には見えないものであり、見えないものを探すためにこそあの地図は必要とされているのでございます。
2012/09/21
この文章は小関悠が書いた。特に明記のない限り、この文章はフィクションであり、私と関係がある、もしくは関係のない、組織や団体の意見を示すものではない。
星新一賞入選のロボット子育て小話「キッドイズトイ」はAmazon Kindleにて100円で販売中。
銃とゲーム
今日もまたゲーム機による傷害事件が起きた。同じゲームをプレイしていた中年男性同士が、勝敗をめぐって口論になり、負けたほうが勝ったほうにコントローラを投げつけたのだ。被害者は頭部に全治三日の怪我。昨日も都内のゲームショップで、携帯ゲーム機を持った中学生が別の中学生を襲う事件があったばかりである。……
冬が去る
冬がまたシチューを作った。これが今年最後のシチューになる。彼女はそう言って笑う。彼女が笑うのは、その言葉を先週も言ったばかりだからだ。先週も彼女はシチューを作った。そして今日また寒波がやって来た。……
レストラン2.X
出張で慣れない街に来て、朝一番からの会議もなんとか終わり、ようやく昼ごはんだと外に飛び出したはいいが、周囲を検索してみるとどれも食べログで2点台というレストランばかりなのだった。中華、イタリアン、蕎麦、ビストロ、ラーメン、カフェ、カレー、なんでも揃っているが、どれも2点台である。会議のあと、なぜ現地の連中がいそいそとコンビニへ向かうのかが分かった。ここは外食不毛の土地なのだ。……
部屋が見える
向かいに住む女が結婚すると知ったのは、プロポーズの会話を直接聴いていたせいだ。彼女の住むマンションと私の住むマンションは狭い路地を挟んで向かいあい、部屋はどちらも五階。三十路前というのに彼女はいつもカーテンを開けっぱなしにして、その気がなくても外に目をやれば生活の様子が伝わってきた。……