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「オウンドメディアブームの終わり」について

オウンドメディアブームは終わったという風潮があるようだ。こういう、マーケティング業界人がよくやる、ちょっとした流行を「〇〇はじまった!」と言って持ち上げ、ほどなく「〇〇終わった!」と落とすサイクルは、本当にいかがなものかと思います。

 

オウンドメディアは、Wikipediaいわく「自社発行の広報誌やパンフレット、インターネットの自社ウェブサイト・ブログなど、企業や組織自らが所有し、消費者に向けて発信する媒体を指す」ということで、まあインターネット広報誌である。

 

そんなインターネット広報誌が、なぜ2010年代の終わりになって一瞬ブームになったのか。まずそこが不思議である。

 

そもそもオウンドメディアの価値ってなんだ

個人でもブログを運営できる今日、メディア運営なんて誰だってはじめられるものだ。

 

とはいえ、ちゃんとしたライターを雇い、取材費を出し、それなりの数の記事を公開して、そこそこのウェブサイトを構築して、保守して、ついでにソーシャルメディアアカウントを作り、コメントには丁寧に返事していると、わりあいコストはかかってしまう。

 

それで、リターンはなんなのかというと、ふつうのメディアであれば、PVだシェアだ読了率だ、社会的影響力だジャーナリズムだと言いつつ、とりあえず収益を出していれば丸くおさまるところ、オウンドメディアは収益というゴールもないので、なんのためにやっているのか、いよいよ定めにくい。

 

もちろん、そのぶん会社の事業に貢献していればいいのだけど、会員獲得とか商品購入とかへの導線としてオウンドメディアが機能するかというと、その運営費でバナー広告でも走らせたほうがよほど手軽で効率的だろう。だから、せめて企業のブランド価値や、ファン形成に寄与しているといいな、みたいな話に落ち着きがちだ。

 

なんでもコスト削減の時代、リターンの不明瞭なオウンドメディア運営はマーケティング施策の中でも難易度が高い。しかし、そんなことはオウンドメディアが騒がれはじめたことから明らかだったわけだし、なんなら「広報の価値ってなんなの?(それでモノが売れるわけ?)」みたいな話はデジタル以前からずっとあるわけである。

 

なぜ「いま」終わったのか

オウンドメディアが今になって終わったと言われるのは、ぐるなびの「みんなのごはん」やnanapiが、このごろ続けて閉鎖されたから、らしい。

 

「みんなのごはん」は、なぜかサッカー選手のインタビュー記事などで著名で、オウンドメディアの代表例・成功例として捉えられていたと思う。閉鎖が発表されたときは、惜しまれる声が多数あった。

 

他方、nanapiは単体でメディアとして収益をあげることを目的とした、私に言わせれば悪い意味での「いわゆるまとめサイト」であって、オウンドメディアとして語られるのはかなり違和感がある。

 

もちろん、他にも閉鎖されたオウンドメディアはある。昨年はリクルートの「HRナビ」閉鎖が話題になった。広いインターネットなので、誰にも気づかれずひっそりと誕生し、誰にも惜しまれず消えていったオウンドメディアだって無数にあるのだろう。

 

一方で、スマートニュースみたいに、今年になってオウンドメディアを始めた大手企業もある。本当に終わったのか? そもそも始まってたのか? みんなオウンドメディアになにを期待してたんだ? よくわからない。

 

企業の自分探しと、メディア作りの楽しみ

オウンドメディアブームのまえは、やたらとソーシャルメディアにアカウントを作って発信しまくるブームがあった。そのまえは、むやみに特設サイトを構築するブームがあった。モバイルアプリを作るブームもあったし、ソーシャルメディア上のアプリを作るブームもあった(Facebookページのアプリとか、覚えてますか?)。つまり、企業はいつも、広告以外で人々につながるチャネルを探している。ほとんど自分探しみたいなものである。

 

そんな自分探しの中で、オウンドメディアは、読まれる記事を作って届けたい、という、企業の施策にしては珍しく読者目線に立った取り組みだったのではないか。

 

運営する側にとっても、メディアによって「自分たちの発信場所」を作る楽しさは、対比されるアーンドメディア(ソーシャルアカウントなど)や、ペイドメディア(広告)ではなかなか味わえないものだったはずだ。ゴールが不明瞭でも、リターンが不透明でも、なんとなくみんなオウンドメディアをやってみたくなるのは、そこに魅力があるからなのだろう。もちろん、楽しいだけでは長続きしないのだろうけど。

 

そう考えると、オウンドメディアブームの栄枯というのは、ことさら騒ぐものではないのではないか。インターネットのコンテンツが永遠に残り続けるとは、もはや誰も信じない今日、オウンドメディアだっていつかは終わるものだから、と開き直ったほうがいい気がする。だいたい、広告なんて、もっとはかなく消えて行くではないか。

 

あらゆるマーケティング施策に終わりがあるように、オウンドメディアにだって終わりがある。記事は消えたり消えなかったりするが、運が良ければ魚拓やスクショとして残り、もっと運が良ければみんなの心に残っている。反対に、オウンドメディアを新しく作りたいという企業があれば、いつだって作ることができる。

 

ブームが去っても、メディアを作りたいという人が残れば、それでいいじゃないかと思うのであった。

 

2019/08/19

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この文章は小関悠が書いた。特に明記のない限り、私と関係がある、もしくは関係のない、組織や団体の意見を示すものではない。

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