1.インターネット以前、大雑把に言うと「知人=近い人」で「他人=遠い人」だった。前者で形成されているのがcommunity、後者で形成されているのがsocietyだとすると、「みんなミニ四駆やってるんだからうちも買ってくれよ」と言った時の「みんな」はcommunityのみんなである。だから隣の学校の人間(他人=遠い人)がミニ四駆をやってるのを見ると「そっちでも流行ってるんだ!」と驚いたりした。隣の学校の人間はsocietyの一員なので、それはただ隣の学校でも流行っているというのではなく、societyで流行っているという風に捉えられたのである。大人でも同じで、遠く他人から聞こえてくる言葉は権威を持つという認識があり、新聞などsocietyの言うことは半ば盲目的に信じられてきた。
2.しかしインターネット以降「近い他人」というのが現れた。近い他人とは例えば愛読するblogの見知らぬ筆者であったり、所属するmixiのコミュニティの他のメンバーであったり、お気に入りのスレッドの常駐者である。落ち着いて考えると「近い他人」との出会いは自らが選択した結果なのだが、このことにはなかなか気付かない。一方、他人なのでその言葉は変わらずsocietyの代弁のように聞こえる。2ちゃんねらーが自分の考えに合うスレッドを読んだ結果、その考えを強くし、「世の中はこの考えの人ばかりなので自分は間違っていない」と錯覚するような流れである。あるいはbloggerが平然と「最近…がインターネットでは話題だが」と書いてしまう流れである。そもそも遠い他人の意見でさえ絶対ではないのに、近い他人と形成したcommunityをsocietyと取り違える間違いは、これからますます増えていくのではないかと思う。
3.この話を「私=世界」化なのだと認識すると、いわゆるセカイ系に繋がる。裏返すと、目の届く範囲をぐるりと見回しただけで「誰も私を分かってくれない」と主張する流れに陥る。
4.でも少し前までメディアは、都市化して「お隣さん」の繋がりが薄れた結果、日本は荒廃したということを盛んに主張していたから、インターネットのムラ化はむしろ望ましいことなのかも。
6.数年前にも、死についてばかり考えていた時期があった。死は人前でトピックにすると、自殺願望の傾向と捉えられがちだが、僕の場合はそういうことではなくて、その頃は死ぬとどうなるのか、死をどう捉えればいいのか、ということをずっと考えていた。一生続くのではないかというくらいずっと考えていたので、何らかの形で決着をつけなければいけないと思い、"
終わりのつづき"という小説を書いたら目論見通り落ち着いた。交通事故で死んで幽霊になるけど、小説やマンガでよくあるみたいに現世に干渉することは不可能で、知り合いになった幽霊たちもそのうちどこかへ消えて行く、という話。
7.最近考えるのはもうちょっと別で、死ぬのは嫌だなー、ということ。1/3くらい人生を消費したわけだけど、なんだか全然足りないのである。頭がきちんと働く時間はもっと少ないんじゃないかと思うと、いてもたってもいられなくなる。これまで生き急がないことをモットーにしてきたけど、もうちょっとギアを上げたほうがいいのかな。それでも、就職してから時間の使い方がうまくなって、ひまだと思うことがほとんど無くなった。この方向で続けていけばなんとかなるかな、と今は思っている。
8.朝ちゃんと起きた。会社に行ったら「せきぐち」という名前のぬいぐるみと、リボンを巻いた眠眠打破が席に置いてあった。
9.お洒落なバイキングに連れて行ってもらった。ビュッフェと言うべきか。猫の格好をしたツボ押しをもらう。
10.今年は例年になく多くの人に祝ってもらった。感謝。すこし早く27になった友人から「27歳とは、何を諦めて、何を諦めないかを決める歳」というメイルをもらった。諦めが良くて諦めの悪い僕にはぴったり。