2.GoogleやWikipediaにより、インターネットにおいて巨大な集団知が形成された結果、情報や情報リテラシーといった概念は完全な変貌を遂げた。かつて情報とは、例えば新聞に載っていることであって、かつて情報リテラシーとは、例えば新聞をたくさん読むことであった。これは今思えば、情報を得ようとする意思に対する障壁から、逆説的に生まれていた概念であった。つまり、昔は図書館に行くか、立花隆のようにストックしておかなければ、古い情報を得ることが出来ず、こうした障壁を乗り越える方策がリテラシーであった。インターネットがやって来て、時代は変わった。極端に言えば、これからはそうした旧来の情報や情報リテラシーに価値はない。なぜならそれは、誰もが容易にアクセス出来る集団知に過ぎないからである。立花隆に価値が無くなったわけでは、決してない。しかし、図書館へ調査に行く必要は劇的に減った。
3.ではこれからの情報と、情報リテラシーとは何なのだろうか?私には正直言って分からない。しかし集団知が情報ではなく、集団知をたくさん得ることが情報リテラシーではなくなる時代が、あっという間にやって来るのではないかと思う。今は過渡期なので「私はblogをたくさん読んで情報を効率的に得ている」というような言い方が正しいもののように聞こえる。でもそれはきっと、小学校のアルバムに載っている住所を暗記するようなことと同値になるのではないかしら。合言葉は「そんなの、わざわざ知っている必要ないじゃん!」。今日でさえ、情報を最もたくさん摂取しているのは、おそらく家から出ない人であるのだから。
4.夜光氏がmixiにたいへん面白い考察を書いていた。いわく、「知り合う」とは「お互いにお互いを知っていること」であるが、これと「お互い一方的に相手を知っていること」は違うそうで、後者から前者に辿り着くには無限の手順が必要なため、不可能だそうな。手順とは「AさんはBさんを知っている」「BさんはAさんを知っている」に始まり、「AさんはBさんがAさんを知っていることを知っている」「BさんはAさんがBさんを知っていることを知っている」、「AさんはAさんがBさんを知っていることをBさんが知っていることを知っている」「BさんはBさんがAさんを知っていることをAさんが知っていることを知っている」…といった具合。ここから僕の考察だが、これはつまり「知り合う」ためには第三者の承認が必要ということなのではないか。「お互いにお互いを知っていることを承認する誰か」が存在すれば、その系の中では「知り合い」でいることが出来る。例えばmixiで繋がるのに、第三者の承認がいたらどうなるだろう?何よりまず、本人性の確認手段が必要だが。
5.デスノート映画版でワタリ役は藤村俊二だそうな。ところで藤村俊二が着ているような洒落たスーツはどこで売っているんだろう。
6.昼食は、おでんか刺身、あるいはその両方が選べる店。パスタかピザ、あるいはその両方という店なら知っていたが。刺身はかなり美味しかった。
7.ずいぶん前、たぶん大学生協へクリーニングに出したシャツを着たのだが、糊がすごくて一日しんどかった。普段はつけないように頼むのだが、忘れていたか、確認されなかったのだろう。だいたい糊って何のためにあるんだ。
9.20:10くらいに家に戻ったところ、ほどなくジャイアンツがスワローズを倒し、8連勝を飾った。これで今日まで13勝2敗1分。第一期原政権の成績を知る者なら、誰にとってもジャイアンツの復活は全く予想通りだろう。しかし、それにしても強すぎる。
10.ずいぶん昔、家で飲み会をやるために買った日本酒を開けて、炒めものに入れてみた。あ、なんかこういう味あるよな、という結果になった。