僕と僕と僕自身 「どうしてアルファベットはあの順なんだ? あの歌のせいか?」 スティーブン・ライト 「神様を笑わせたいって? 君の将来の計画を話してみなよ」 ウディ・アレン  その日、朝刊一面の見出しは「楠市でまた死体遺棄」だった。楠市というのは、僕が住んでいる街だ。小見出しには「同一人物による犯行? 同市内で三人目」と書かれてある。まったく、クリスマスだというのに無惨なことが起きるもんだ。僕はそのときまだ健在だった自分の家で、新聞を読みながらそう思ったことを覚えている。  十時を過ぎて、仕事に出た。僕は「213」という小さなイタリアン・レストランでウェイトレスをしていた。庶民的な店だ。ランチメニューは三種類。本日のランチとパスタランチが800円で、その両方食べられる人気のハーフ・アンド・ハーフセットが950円。辺りには大学が沢山あるので、昼休みになると狭い店内が学生で埋めつくされる。そんな店だった。  その日は静かだった。十二時を過ぎても客はほとんどいなかった。学生達は冬休みの真最中。一時を過ぎて最後の客が席を立つと、店内は音一つしなくなった。僕はカウンターの裏で家とは別の新聞を読んでいた。一面はやはり「楠市連続死体遺棄事件」について。今回死体が捨てられてあったのは、ここから自転車で十分ほど行ったところだった。新聞には丸尾山と書いてあったが、あのちっぽけな山にそんな名前があったことをその日初めて知った。 「213」マスターの西園栄一郎がキッチンから出てきて、「店を閉める」と言った。僕は反射的に「はい」と答えた。マスターと言ってもそれ以外にいるのはアルバイトのウェイトレスである僕だけだったから、彼の指示はいつも僕に向けられた指示だった。僕は壁の時計を見る。一時半。ランチタイムは二時までだったが、客足に応じて遅くまで開いているときもあったし、早めることもあった。  妥当な判断だと、そのときは思った。  店の入口に掲げてあるメニューを書いた小さな黒板を下ろし、看板のライトを切った。入口の鍵を一旦閉め、黒板に書かれた「本日のパスタ:レタスとアンチョビのスパゲティ」という文字を消す。それから、いつも繰り返している通り「本日のディナーはどうしますか?」と聞いた。  もちろん、僕はメニューを尋ねたのだった。夜の「213」は日替わりで三種程のメインディッシュを用意し、その中から一つ選んでもらう形式を採用している。ライスかパンにスープ、サラダがついて千円丁度。僕は黒板消しを脇に置き、チョークを手に持った。そしてマスターの頭の中に既に存在するはずのメニューを聞いて書き留めようとしていた。  マスター西園栄一郎はこう答えた。 「ないよ」  僕は、もう少しでいつもの通り「なるほど」と言うところだった。習慣病というやつだ。認識より先に行動が始まってしまう。だからちゃんと「ないってどういうことですか?」と聞くには、たっぷり五秒以上間を取って自分自身を持ち直す必要があった。 「ないといえば、ないということだよ」マスターは牧師のように重々しく言った。 「店を閉めるんだ」 「閉店ということですか」僕は尋ねた。 「つまりその、翌日になっても開店しない、という意味の」 「うん、店をたたむよ」マスターは、そう答えた。自分で確かめるようにしっかりと。  その日、僕は二十四歳になった。僕はクリスマスが誕生日という不幸な人間だった。企業の内定を貰えないままに大学を卒業してしまってから、もうすぐ二年が経つことになる。  卒業してからも半年間は、就職活動を続けていた。結果は散々だった。履歴書の書き方に慣れただけだった。慣れたからといってどうなるものでもなかった。何枚も何枚もエントリーシートを書き、あちこちに出かけては「人に自慢出来ること」や「自分で欠点だと思うところ」といった質問に何度も何度も答えた。気付いた時には自分より自分らしい履歴書が書けるようになっていた。こんなに自分のことを深く見つめている人間はいないと思うほどに。だが、それでも企業には採用されなかった。  次の半年は、何もなし。全て投げ出したくなって、実際にそうした。一日中家で眠ったり本を読んだり、借りてきたホラー映画をろくでもない友人と見たりして、毎日毎日時間を潰した。朝食を抜き、昼はだいたいインスタントのラーメンか焼きそばを食べた。そもそも、朝や昼という概念を考えること自体が無意味になっていた。午前四時に眠り、午後三時に起きる。午後九時にまた眠くなって眠り、午前二時に目が覚める。そういう生活だった。  そんな状況を半年ほど続けたある日、お金が無くなった。完全に。二月の中頃だった。寒いのでコンビニでホットコーヒーを買おうとして、財布の中に百円玉が無いことに気がついた。五百円玉も無かった。何らかのお札も、全く。  驚いたことにその瞬間に初めて、自分史上で最大の困窮状態に陥ったことに気付いた。貯金の状況についてはよく知っていた。かけらもない。二日ほど前、郵便局で最後の貯金を引き出した時にぼんやり「貯金が無くなってしまったな」と思ったのは確かだ。確かに覚えている。それでもその時の僕は、自分が貧窮しているとは何故か思っていなかった。  この現象を僕は後に「脳の防火扉が下りる」と呼ぶことになる。肝心な所に火が移って燃えてしまわないように、脳味噌が危機的状況を勝手に忘れさせるのだ。火種はずっと前に生まれ火の手はどんどん大きくなっていたが、その時の僕の脳というのはまさに防火扉が下りきっていて、何の金銭的不安も感じることが無くなっていた。近いうちにどうにかなるだろうとしか思わず、またホラー映画を借りに近くのレンタルビデオショップに立ち寄る始末。  そういう風にして僕にとってはある日突然、他の人にとってみれば当然の成り行きで、その日の夕食の用意もままならない状態を迎えることになった。火が防火扉を焼き尽くしたのだ。熱が脳を焦がしている。僕は手に取ったコーヒーをもとのケースに戻し、アルバイト情報誌が並べてある棚に向かった。実に自然な動作で。店員が冷たい目つきで僕を見ている。構わない。問題は晩御飯だ。僕は一冊のアルバイト情報誌を手に取ると、その場で目ぼしいアルバイト先をチェックし始める。  その日の夕食を僕は「213」で食べた。マスターが「どういうものを出しているか知る必要もあるだろうから」と真面目な表情で言い、食べさせてくれたのだ。「君には仕事を見て、選ぶ権利がある」メニューはその夜の「本日のディナー」の残りものだった。鶏肉をソテーしたもの、茹でたブロッコリー、舌がやけどするくらい熱かったオニオングラタンスープ。全て綺麗に食べ終えて、僕は頷いた。その店で働くことを決めたのだ。時給800円で食事付、エプロン支給。素晴らしい待遇とは言わないが、食事は魅力的だった。魅惑的だったと言ってもいい。カップ麺漬けだった僕の舌は簡単に降伏した。何より、明日の食事の為には他に選択肢が無かった。「交通費は支給しないよ」マスターは言った。店は家から歩いて十分ほどの距離にあった。 「閉店ですか」僕はマスターに言った。あの夜から十ヶ月以上経った。自分はこの仕事に向いていると思い始めていたところだった。自分に少しばかりの自信が生まれ育ち始めた矢先。客を相手にしながらの、ちょっとした事件に溢れた、それでいて繰り返される毎日。僕は、ちょっとした事件と習慣的な毎日に飢えていたのだ。毎朝決まった時間にちゃんと起き、毎晩決まった時間にちゃんと眠る。テーブルの足にひっかかって水をこぼし、客の女の子と親しくなる。そういった一つ一つの事柄が、僕を無気力の世界から取り戻させた。それは充実した毎日だった。  失敗もあったが、マスターは僕の仕事ぶりに文句のようなことを何一つ言わなかった。もともと口数の多い男ではなかったけれども。仕事にはそれなりに厳しい人間だった。前任のウェイトレスは仕事に十五分遅刻して、クビにされたのを僕は知っていた。  マスターは、仕事以外に何も無い人間に見えた。僕はそう思っていた。閉店? これからどうするつもりなんですか? 答えは、僕が尋ねる前にマスターの口から放たれた。 「離婚することになってね」マスターは言った。僕は呆気にとられた。西園栄一郎は、たぶん三十過ぎ。細身で、いつも眠そうな目をしている。ボサボサの髪をしていて、料理人というよりは絵描きと言った方がしっくりくるくらいだ。つまり彼からは常時全身から、おおよそ妻帯者とは思えない緊張の無さが放出されていた。誰かを守りながら生きている様子にはまるで見えなかった。何より、結婚しているなんて話をこの十ヶ月聞いたことがなかった。僕はただただ唖然として「はあ」とだけ言った。 「浮気がバレてしまってね。たっぷり慰謝料を取られることになった。店も売って、金にしないといけない」そう言うと、マスターは小さく笑った。 「そう、それで給料を払わないとな」マスターは奇妙に明るく言った。 「あぁ、えぇ」僕は反射的にそう言った。こんな時、僕はコミュニケーションなんて反射作用のやりとりでしかないと真剣に思う。言いたいことは言えず、そもそも言いたいことが言いたい時に思い浮かぶこと自体めったにない。 「これ」とマスターは僕に茶封筒を手渡した。 「少し多めに入れといたけど、まぁ退職金だと思ってくれ。それから」マスターはくるりと店の中を見回して言った。 「何か欲しい物があるなら持って帰るといい。どうせ全て売り払われて、手元には残らないからね。あの圧力鍋なんてどうだ? モノは悪くないし、その、ポトフとか作ったりはしないか?」 「あの、」僕は何とか言うべき言葉を見つけ出した。 「うん?」 「今までありがとうございました」 「うん」マスターは視線を少し伏せて、そう言った。 「それで欲しい物は?」  僕はぐるりと見回した。マスターよりも心持ちゆっくりと。 「では、あのコーヒーメーカーを」僕は言った。マスターは頷いた。  こうして僕はコーヒーメーカーを片手に「213」を出た。今日は夜まで働いて、それからクリスマスパーティ兼僕の誕生日パーティを、恋人が開いてくれる予定だった。だが、予定は所詮予定。世の中は思い通りにいかない。  恋人は、名前を麻木春子といい、「213」のすぐ隣にあるマンションに住んでいる。まだ大学生で、店の常連客だった。客足のまばらな時にどちらからというわけでなく二三言葉を交わし、それから彼女が店に来る度に挨拶とちょっとした話をするようになり、色々と喋っているうちに自然と仲良くなって、いつの間にか付き合うようになっていた。線形的恋愛。よくある話だ。  パーティまでの時間をどう過ごそうか、僕は頭を捻った。外は寒かった。われらが楠市は四方を山に囲まれた盆地にあって夏はめっぽう暑く、冬はめっぽう寒い。消防車が目の前の通りを走って行くのが見えた。それから、救急車も。朝の天気予報で足の綺麗なお姉さんが「空気は乾燥しています」と言っていたのを思い出す。目には見えないけれども、確かにそんな感じだ。じっと立っていると冷気が肌をちくちく刺す。とりあえず暖かいところに行くべきだと、僕は思った。そしてその結論として、僕は恋人の家へと向かった。その時はそれが妥当な選択だと思っていたようだ。  彼女の部屋は305号室。その前に来るまで五分とかからなかった。僕はチャイムを鳴らした。ピロン、と無駄に甲高い音がした。しかし、返事は無かった。僕はもう一度鳴らした。再び返事無し。買い物にでも出かけたのだろうか。僕はそう思いながら、ポケットから鍵を取り出した。春子と付き合い始めたのは二ヶ月ほど前、合鍵を渡されたのは付き合い始めたその日だった。 「研究でなかなか帰られない時もあるから、」彼女は鍵を渡す時に言った。 「でも折角家まで来たのに恋人がいなくて、それで帰らなきゃいけないなんてことになったら二重に寂しいでしょう? だからそんな時は中に入って、テレビでも見て待っていてくれるといいから」  そうして僕は渡されるがまま鍵を受け取ったのだ。  僕はその鍵を、ドアに差し込む。がちゃん、と安っぽい音がしてドアが開く。  彼女は部屋にいた。彼女の家は八畳一間。ドアを開ければ中が一望出来る。春子は窓際にある彼女のベッドで仰向けになっていた。それからもう一人、彼女のベッドの上に、より正確には彼女の上に、見知らぬ男がいた。二人とも裸だった。男はぎょっとした顔で僕を見たが、春子は落ちついた表情のままだった。 「早かったのね」春子は言った。 「うん」僕は言った。 「誰だ?」男が、春子に重なりあったまま言った。 「大事な人よ」春子が言った。 「変な時に来ちゃったね」僕は言った。 「帰った方がいいかな」 「いえ、大丈夫よ」彼女はそう言いながら、男の下からする、と抜け出した。 「この人に帰ってもらうから」 「おい、ちょっと待てよ。こいつは誰なんだ? どうして鍵を持っている?」男が春子の言葉を聞かずに言った。 「やっぱり帰った方が良さそうだね」僕は言った。  春子はベッドから下りて床に立つと、落ちていたブラジャーを手に取り、僕をまっすぐ見ながらそれを身につけようとし、器用にもその動作を続けながら肩をすくめた。そして、 「否定しないわ」と言った。  僕は彼女の家の鍵を玄関の床に置き、回れ右をした。その時、下駄箱の上にある写真立てが僕の目に飛び込んで来た。僕と春子が動物園の象の広場の前で手を組んで笑っている。あれからまだ一月も経っていない。僕はそれを手に取ると、ドアを開けて彼女の家から出た。海外にツアーへ行ったロックスターがファンの見守る中で飛行機から降りる時のように、あくまでゆっくりと。ドアが閉まってから、部屋の中で男が叫んでいるのが後ろから聞こえた。 「おい、何なんだ? あの女は?!」  オーケー、僕は女だ。でもそれがどうしたって言うんだ? そんなの今時、全然珍しくないだろう?  そう思ってから、少し悲しくなる。毎日悲しいことばかりというわけではないが、時々生きていくのが嫌になるほどの悲しさに包まれることがある。もっともそれこそ、そんなの今時誰にとっても珍しくないことかもしれないが。  小学校三年生の時、初めて好きな人が出来た。相手はクラスメイトの男子。大井劍という名前だった。彼はこの年頃の女の子が気になる要素、ちょっとした親切とか不意に見せる大人っぽさとかを全て兼ね備えている少年だった。大人の模型のような少年だった。その証にみんな、同い年の中、男女問わず彼だけをくん付けで「大井くん」と呼んだ。彼は少し、浮いていた。誰もが憧れるくらい少しだけ空を知っていた。陳腐な表現をするなら、彼はクラスのアイドルだった。彼の細い腕、変声期を早々に済ませた落ちつきある声、耳、目。今でもくっきりと記憶に残っている。  僕はそれから六年生になるまでずっと、彼と同じクラスだった。その頃の僕に神様を信じるかと尋ねたら、恐らく信じると答えただろう。僕達の小学校は一学年四クラス。四年間とも同じクラスになる確率は、256分の1しかないはずだった。  毎年四月、始業式が終わると、僕達はクラス編成を書いたプリントを先生から手渡された。僕と彼の名前は、いつも同じ囲みの中にあった。まるで石版に始めから刻まれてあったかのように。それを見た時、僕はいつも今年こそ大井くんとうまく話せるようになろうと、友人達に平静さを装いながら思うのだった。毎年毎年、それは彼が私立の中学校に進学することになって、同じクラスになることが絶対に無理になるまで続いた。結局僕が彼に対して親しげに話しかける機会は一度も無かった。大井くんは大井くんのまま、心に痣のように残ることとなった。  中学校に入っても、彼より素敵な男はいなかった。同級生の男子達は、年を追うごとに子供になっていくように見えた。むしろ中学校の男子より小学校の男子の方が落ち着きを持っていたように、僕には思えてならなかった。  そして僕の視線はそれよりも、日々どんどん変化していくクラスメイトの女子達に向けられるようになった。彼女達には、おたまじゃくしが蛙になるような驚異的なダイナミズムがあった。確かに存在したはずの尻尾がどんどんと短くなって、いつの間にか足が生え、水の中に縛られることなく生きていけるようになっていた。僕だって同じ種のはずだったが、いつまでたってもそうは思えなかった。父は僕を「大器晩成型」と言ったが、ちゃんと意味を理解した上で言ったのかどうかははなはだ疑問だった。結局、僕は水中からクラスメイト達が陸の上で飛び回っているのをただただ驚きの目で見つめるだけだった。僕はいつまでもおたまじゃくしだった。あるいは醜いアヒルの群れに紛れこんでしまった本物のアヒルのようだった。  そんな時に、一人の女の子に出会った。彼女は中学二年の時のクラスメイトだった。背が低くて、真っ直ぐで真っ黒な、いつもきらきらした髪の持ち主。端的に言って地味な女の子で、クラスメイトの男子達にはあまり評価されていなかった。しかしそれは、彼女が他の人気のある女子達のように男が簡単に喜ぶような態度や言葉を見せないからだった。彼女はそれを知っているのに、それをしなかった。僕はそんな彼女から、いつも目が離せないでいた。彼女はさっきまで同じおたまじゃくしだったのに、いつの間にか他の誰よりつやつやと美しくなってしまった、いわば蛙の女王だった。彼女の魅力は明らかに中学校という池に収まるものではなかった。  だから僕達の中学の若い男の理科教師と彼女の間に幾つか噂が流れた時、男子達は驚いたが女子達はそれほど驚かなかった。僕などは妙に納得し、安心さえもした。噂では、あの耳の長い理科教師が彼女の虜になってしまったとのことだった。更に詳細で信憑性の薄い噂によれば、彼女はある時その教師から理科準備室に呼び出され、そこで抵抗する暇もない程素早く熱烈なキスを浴びたとのことだった。男子達の彼女を見る目は変わったが、それはどこか哲学者を見る群衆のような目つきだった。  もっともそこまでは、どこの学校にでもよくあるような話。噂が現実なのかどうかは分からないまま卒業を迎え、運が良ければ十年二十年後の同窓会で「あれは何でもなかったのよ」と当人の口から聞かされ、安心しておしまい。みんなで笑い、その後大勢はまたばらばらになり、何人かは再び親密になる。それだけのことだ。  僕達の学校は違った。ある日の帰り道、僕は彼女から突然声をかけられた。これまでにも会話を交わしたことが無いわけではなかった。だがそれらは大抵挨拶程度のものか、あるいは中学には中学でちゃんとある、事務的会話というやつばかりだった。特に噂が生まれ育ってからは、話す機会なんてまるでなかった。それは他のクラスメイト達も同様だったと思う。  彼女は「相談に乗ってくれる?」と言った。学校を出てすぐの下り道。周囲を見渡したが、あたりには誰もいなかった。僕はどう答えてよいのか分からなかった。頭の中で理科準備室にいる理科教師が見えた。 「相談って、その」僕は何とかそう言った。そしてそれから、もごもご口を丸めたり若干広げたりはした。けれども、言葉は何も生まれてこなかった。 「そうなの。そのことよ」彼女は僕が諦めて口を動かすのを止めてから、そう言った。 「困っているの。退学させられるかも。ねぇ、中学校みたいな義務教育でも、退学ってやっぱりあると思う?」 「無いと思うよ。義務だから」僕は言った。 「良かった」彼女は言った。そしてふぅ、と浅く息を吐くと、僕を正面から見て言った。 「もちろんあなたにとっては他人事だろうけれど、私は私なりに本当に悩んでいるのよ。分かってくれる?」僕は頷いた。それを見て、彼女も頷いた。 「二つの相談に乗って欲しいの。一つは、その、あのどうしようもない男のこと。もう一つはあなたも関係のあること。どっちから聞いてくれる?」  僕は、自分の頭の中が洗濯機みたいにぐるぐると回転しているのを感じた。ちょっとした混乱状態。一体、僕にも関係のあることって?けれども僕は何とか我慢して、 「じゃあ男のことから」と言った。 「迫られているの」彼女はすぐに答えた。 「同級生の男達とうっかりしてしまう前に、完全征服したいみたい」  何も言えなかった。とっさに何が言えるというのだろう? 彼女の発言の内容についてというよりも、むしろ内容に見合わないその言い方について、僕はただただ言葉を失った。 「男って本当に計画性がないわ。バレたらどうするつもりなんだろう」 「断わったら?」馬鹿な発言だ。でも何か言わなければと思って、僕は何とか、そうとだけ言った。  彼女はそんな僕の心を読み取るかのようにゆっくり微笑んだ。そして、 「断わってはいるんだけどね」と言った。 「しつこいの?」 「しつこいね」 「その、相手にしない方がいいんじゃないかな」僕は言った。 「無視しても、だからって理科の成績が悪くさせられるようなことはないと思うけど」 「理科は最初から嫌いだから大丈夫よ」彼女は頷きながら、そう言った。 「その、うまく友達と一緒に行動していたら、先生も声をかけられないだろうから」 「それなのよ」彼女は言った。 「つまり、私には友達とか仲間とか恋人とか、そういう人間が必要なの。私の側にいてくれる人間がね。それで、もう一つの相談なんだけど」  彼女はそう言って、また僕をじっくりと見た。彼女は僕が聞き出してくれるのを待っていたのかもしれないが、僕は彼女に見つめられて動けないでいた。何しろ彼女は蛙の女王。僕は一介のおたまじゃくしなのだ。  そんな僕をたっぷり見守ってから、彼女はようやく言った。 「私、あなたのことを愛しているの」そう言って、抵抗する間もない程素早く、彼女は僕にキスをした。  その瞬間から、僕は僕になった。僕の興味に男が入り込んでくることは無くなった。僕の視界にはいつも気紛れで魅力にあふれ、暖かさと冷たさを信号のように交互に切り替える女の子達が存在することになった。単純に言うと、僕は男から女に興味が移った女だった。僕は僕というのが僕自身だと思うようになった。最早私では全ておかしく思えた。それ以上でも、それ以下でもなく、ただそれだけのこと。例えば髪型や服装や趣味が男性化するようなこともなし。中学と高校では同じような灰色のブレザーを着て過ごした。大学に入ってからもたまには、二週に一度くらいはスカートをはいたし、成人式の前には髪を伸ばし、式には振り袖でのぞんだ。おおまかに言って、普通の生活。世間に迷惑をかけるわけでもなし、性の自由化を声高に歌うわけでもなし。  彼女とは中学を卒業するまでの一年と少しの間、実に曖昧な関係が続く。当時の僕と彼女に言えることは、僕達は中学生だった、ということだ。いかに進んでいたにしろ、希少な関係だったにしろ、僕達は中学生だった。これまたそれ以上でも、それ以下でもなかった。  僕は春子のマンションから出た。みぞれのようなものが空から降っていた。僕がマンションに入り、恋人と男の裸体を見、マンションから出てくる間に降り始めたらしかった。ひどい一日だと、僕は思った。「失職と失恋」。文字にするとたった五文字の出来事だったが、そのたった五文字が徹底的に僕を参らせた。「僕」自身、文字にするとたった一文字の存在なのだ。そんな僕にとって、ほんの僅かの時間にいちどきに起きた「失職と失恋」は、何とも重すぎる。  僕はみぞれの中を歩いた。家まで歩いて十五分。時々大きなみぞれが体を強く撃ったが、痛みはそれほど感じなかった。予想の範囲内だからだ、と僕は思った。予期出来ることには人間、大抵我慢も出来る。  住宅街の中にぽつんとあるケーキ屋「ランバス」の前を通る時に、僕は今日がクリスマスであることを思い出した。そして、僕の誕生日であることも。クリスマス生まれのメリットは人に誕生日を覚えて貰いやすいこと。クリスマス生まれのデメリットは誕生日ケーキがクリスマスケーキとひとまとめにされてしまうこと、誕生日プレゼントがクリスマスプレゼントとひとまとめにされてしまうこと、みんな忙しくて誕生日の夜にパーティを開いても誰も集まってくれないこと、それから、クリスマスに気を取られて何人かに誕生日を忘れられてしまうこと。友人達はおろか、母でさえそうだった。父が思い出さなければ、僕にはケーキの火を吹き消すことなく一つ老いることになった年が、何度かあっただろう。けれども、だからと言って母を責めることは出来ない。今日のような大変な日には、自分でさえ忘れてしまうのだ。母のように忙しい人間がたかだか娘の誕生日を忘れたとして、一体誰がそれを責めることが出来るだろう?  そんなことを考えながら、僕はさらに家に向かって歩いた。  僕のマンションはちょっとした丘の上にある。奇妙に思ったのは、その丘の麓のあたりに辿り着いた時だった。いつもはガラガラの道路の両端に、ワゴン車が何台か止まっている。そしてそのワゴン車にはどれもテレビ局のステッカーが貼りつけられている。  僕は歩いた。こころもち速く。マンションに近づくにつれ、人の声が聞こえるようになった。誰かの声というものではなく、大勢の人が小さく囁く声。消防車が見えた。それからロープ、救急車。僕は左手に持っていたコーヒーメーカーを、あるいはまだ右手に持ったままの恋人だった人間が映った写真立てを、不意に落としそうになった。  マンションが燃えていた。それは、紛れもなく僕の住むマンションだった。  僕はおそらく五分ほど、マンションが焼け落ちて行く様をじっと見ていた。僕の部屋のあたりを包んでいた炎は比較的すぐに消えたが、一度思い出したようにまた大きな火が窓の外まで這い出て、ベランダあたりまで黒々と焦がした。何がそんなに燃えるのだろうと、僕は自分の部屋を回想しながら考えた。雑誌に小説、マンガに写真、Tシャツ、祖父が小学校入学の時に買ってくれた大人びたステンレスの机、浴室の赤い湯桶。声をかけられなかったら、僕はもうしばらくマンションの内部を移り行く炎の姿を見続けていただろう。そして、燃えつきる部屋の中にあったもののことを思っただろう。 「おい、大変なことになったな」そう呼びかける男の声が聞こえた。僕は振り返った。  綿パンにベージュのハーフコートという格好の男が一人、警察官の制服を着た女と一緒に立っていた。男は友人だった。名前は尾上修平。同じマンションに住んでいて、暇を見つけては時間に構わず家にやってくる悪癖がある。彼は僕と同い年で、一緒に同じ大学を卒業した仲だ。そして彼も就職に失敗し、未だ定職もなく、ほぼ毎日暇にしている。趣味は切手集め。郵便局の前を通る度に何とかの記念切手が新たに発売されていて、僕などはどこにそんな需要があるのだろうと常々疑問に思っていたのだが、なるほど、ここに少なくとも一人分は、確かな需要がある。彼はいつも、無い袖をふり絞って切手を買い続けていた。口癖は「いつか見てろ」。言い回しは力強いが、実際の口調はだいぶん弱々しい。彼とは、僕が「213」で働き始める前の時代に、共にホラー映画を見て一日を潰した、いわば暇友達、無気力仲間だった。 「ちょっと飲み物を買いに出たらこれだよ。運がいいのか悪いのか」  そう言って、尾上は隣の警官をちらと見た。彼女は僕と目が合ってから始めて僕に礼をした。 「楠署の仁科です」女は言った。  僕はどう言うべきなのか考えたが、一応「こんにちは」と言った。仁科は小さく頷いて、 「こちらの住人の方ですか」と言った。 「そうです」僕は言った。 「今、お戻りで?」 「そうです」 「うちの斜め上の、もう二つ上の部屋の住人だよ」尾上はまだ燃え続けるマンションを指差しながら、警官に言った。 「なるほど」警官は頷いた。そして、 「それで、何か心当たりはありませんか?」と唐突に言った。 「心当たり?」 「おかしいよな。こっちが聞きたいってさっきも言ったんだ」尾上は小さく言った。 「これまでにこのあたりで不審な人物を見かけたということはありませんか」警官は尾上の言葉を聞かずに言った。 「いえ」僕は答えた。そして一つ呼吸をとってから、 「放火なんですか?」と聞いた。 「両面から検証を行う予定です。つまり、事故である可能性と、事件である可能性の両面から」 「何も分かってないって」尾上がまた小さくそう言うと、警官は露骨に嫌そうな顔を見せた。だが、すぐ表情を戻して僕の方へ振り返り、 「何か思い出したら、あるいは見つけたら、署の方にすぐご連絡下さい。どんな小さなことでも結構です」と言った。そして、小さく一人で頷いて、それが挨拶のかわりだったのか、回れ右をして帰って行った。 「どうしような」尾上は言った。 「これからどうすればいいんだか」そして一人で小さく笑って言った。 「考えてみたら寝る所さえないな。どうする? 一緒にホテルにでも泊まるか」  僕は彼の顔を見た。彼は真剣な表情をしている。少なくともそんな風に見える。あくまでさりげなく、聞きようによっては力無くも聞こえるその口調。彼が僕のことをどう思っているのかは気付いている。そして僕が気付いていることを、彼は知っている。知っていて、あえてそういった行動を出る。一枚だけを強調して見せる、ババ抜きの常套手段のようだ。  僕にとっては、そんな彼が少し滑稽でもある。何故なら、彼や他の人達から僕がどう見えるのかは分からないが、僕がもう男に何の性的興味もないというのは、僕の中で絶対に揺らぐことのない事実だからだ。それはサナギから変態した蝶が、最早キャベツの葉に何の興味も見せないのと同じ。僕の心は、もう蝶になりきってしまっていた。必要なのは甘い花の蜜。尾上は僕のことを沸騰した湯のように思っているようだ。いつか冷めてもとの水になると彼は思っている。彼だけではない。僕のことを知る人達は、ほぼ例外無くそのように僕を捉えてみせる。僕の両親でさえ、僕の変化を心に出来た水疱瘡程度のものだと思っている。母は僕が蝶になったと知るとこう言った。「青春を楽しみなさい。好きなやり方でね」両親でさえそうなのだ。ひょっとしたら、両親だからこそ。  僕は尾上に笑ってみせた。尾上もそれを見て笑った。僕は言った。 「ホテルって? そんなお金がどこにあるの?」  尾上は言う。 「何枚か切手を売るさ。今に見てろ。こっちには丁度いい具合に価値の上がっているのがあるんだ」 「ねぇ、」僕は言った。 「僕の知る限り、君は僕と同じくとっても貧乏だと思っていたのだけど、君にはどこかに僕の知らないパトロンがいて、彼女だか彼だかが切手専用の倉庫でもプレゼントしてくれたの?」  尾上はまだ笑っていた。何のことを言われたのか、まだ理解出来ていないようだった。防火扉が下りているのだ。僕は思った。肝心なところに火が回らないように。 「そんな!」彼が叫んだ。あまりの声で、周囲の視線が一瞬、マンションから彼へと移った。  だが、彼は周囲の視線などまるで気にしていない。彼は走り出す。マンションへ。無言のまま野次馬を押し退け、ロープをくぐり抜ける。そして、再び走り出そうとした瞬間、二人の消防隊員に掴まった。「馬鹿、離せ!」尾上が叫ぶ。だが、もちろん消防隊員は離さなかった。マンションはほぼ鎮火しかかっていたが、現場検証にはまだ早かった。まして、住人といえども一般の人間が入るには、だいぶん早過ぎた。 「離せ!」尾上は叫んでいる。見物人が、不思議な面持ちで彼と彼を押さえる消防隊員を見ていた。  携帯電話が鳴ったのはそんな時だった。僕は電話をポケットから取り出した。そして、相手を見て僕は溜息をついた。 「もしもし?」僕は言った。 「一つだけ話があるのよ」相手は言った。よく知っている相手の、よく知っているいい回しだ。彼女が話は一つだけと言えば、途中で何が起きても話は一つだけ。僕の知る限り、彼女は誰より論理的で、誰より自分に厳しい人間だった。彼女のお腹から生まれてきたというのに、どうして僕と彼女はこうも違うのだろう。僕は頻繁にそう思う。 「話って何? ママ」僕は言う。 「あなた、年末は帰ってくるの?」  僕は少しだけ考えた。年末は大晦日まで「213」で働く予定だったが、その予定は消えた。年明けは恋人と初詣にでも行こうかと話していたのだが、その計画も無くなった。かといって、家で寝正月というわけにもいかなくなった。 「あのね、ママ」僕は言った。 「つい今さっきのことなんだけど、仕事に行って帰って来たら丁度、家が燃えていたの。火事なのよ。もうここには住めそうにないんだけど、どうすればいいかな?」 「そうね」ママは言った。 「でもそれはそれ、とりあえず年末をどうするか決めればいいんじゃない?」  ママはフリーライターで、我が家の収入を一手に背負っている。父は真面目なサラリーマンだったが、端的に言って無能で、僕が中学生の時に仕事場をクビになった。ママはそれまで専業主婦だったが、家の将来を案じ、生活の糧に不安を覚え、友人のつてで雑誌の編集の手伝いをするようになった。  当時、僕は高校に行けるかどうか不安だった。中学を卒業したらそのまま就職しなければならないのではないかと思っていた。だが、母は有能だった。父よりもずっと、世間一般と比較してもずいぶん。彼女は仕事を次々と自分のものとする一方で自分の守備範囲を少しずつ広げ、広がった範囲からの仕事を受けられるだけ受けながらそれらの新しい仕事を自分のものとし、守備範囲を広げ、このサイクルを幾度も繰り返した。いつの間にか母は、十分著名と言って良い程のフリーライターになり、我が家は十分に裕福と言って良い程の経済水準になった。それは父がサラリーマンだった頃よりもずっと高い水準だった。  僕はママを尊敬している。当然のことだ。これ以上尊敬という言葉に相応しい母親がいるだろうか? だからママがいかに冷静で、瞬間的には冷酷にさえ思えることがあっても、僕はぐっと思い直すことにしている。彼女にとっては娘の下宿が燃え崩れても「それはそれ」。だが、彼女がそんな性格だったからこそ、僕は何の経済的不安もない高校生活と、大学生活を送ることが出来たのだ。大学を卒業してから仕送りを貰うことは止めたが、だからといってすぐその感謝を忘れる程じゃない。 「ママ」僕は言った。ゆっくりと言葉を吟味しながら。 「色々あって少し混乱しているの。どうしていいのか分からない。帰るべきかな?」 「したいようにすること。何がしたいのか分からないなら、とりあえず何もしなければいいのよ」ママはそう言った。彼女はいつもそう言った。  僕は小さく息を吐いた。自分が微笑んでいるのが、分かった。 「分かった。年末には帰らないと思う」僕は言った。 「そう。分かったわ」ママは言った。 「お父さんによろしく」僕は言った。 「伝えておく」ママは答えた。そして、電話は切れた。  火事は消えたようだった。消防隊員は幾つかの組に分かれ、ホースをまとめたり消防車に乗って帰って行ったりしていた。代わりにマンションの周りを警察官がうろうろと歩き、何人かに話を聞いていた。仁科と言った婦人警官もその中にいた。様々な尺度から事件か事故かを見極めているのだろう。  尾上はいなくなっていた。野次馬の数は僕が最初にマンションへ辿り着いた時より随分減って、五分の一くらいになっていた。僕はぐるぐると辺りを見たが、やはり尾上はいなかった。あのままどこかへ連行されてしまったのかもしれない。  ふと、彼とどこかへ泊まりに行けば良かったなと、僕は思った。彼が僕をどう思っているにしろ、一緒にどこかへ行ったからと言って危険な目に合うとは考えられなかった。だいたい、今までに何度も我が家で一緒にホラー映画を見ては、そのまま寝てしまうことがあったのだ。それに、彼の案じる通り、寝る所がないのは事実だった。  僕はポケットにしまった電話を再び取り出して、誰か家に泊まらせてくれるような人を探した。春子の顔が僕の頭にまず浮かんだが、それは流石にやめた。  結局、僕は一人の友人に行き着くことになった。電話を取り出す前から、そうなると分かっていたことだった。実家に戻らないと母に言った時からそうすると心のどこかで決めていたことだった。僕は一応他に適切な人がいないか、形式的に調べてみせただけだった。僕自身を欺く為に。そうでもないと、僕は彼女に電話がかけられなかった。断られることは無いと思っていたし、実際僕が事情を説明すると、彼女は何の迷いもなく了承してくれた。  彼女は一応、名前を井上祥子と言った。一応というのは、彼女の友人で彼女のことをそう呼ぶ人間はほとんどいないからだ。普通、彼女は辞書と呼ばれている。理由はそのまま、彼女の家には沢山の辞書や辞典や字典があって、彼女の精神はそれらを基盤に築かれてあって、彼女自身辞書か辞典か字典のような人間だからだ。重みがあって、その上簡潔で、迷いが無く、洗練されている。彼女はまだ学生で、僕より若い。しかし彼女を見ると、年齢というのが週刊誌の最後のページに載ってある占いに書かれた「今週のラッキーナンバー」くらいの意味しかないことがよく分かる。  僕は彼女が好きだった。簡潔なところも、嘘を言わないところも、落ち着きがあるところも。とても。彼女は僕のそんな感情を知っているはずだったが、彼女が知っていることに僕が気付いているのを彼女は分かっていても、それはそれとして彼女は何も態度には見せなかった。  つまり、尾上から僕へのベクトルがあって、同じベクトルが僕から辞書にある。だから尾上を滑稽だと言うからには、僕自身十分に滑稽だ。尾上が僕を測りかねているように、僕は辞書が分からない。ただ、尾上は他には切手だけが愛情の対象だったが、僕にはそれはそれとして、恋人がいた。つい先程まで。それだけのことだ。  辞書の家の前に立った。僕は一つ深呼吸。それから、ゆっくりとチャイムを鳴らす。すぐに、辞書がドアを開けた。 「大変だったね」辞書はまず僕の顔を見て、そう言った。 「うん」僕は言った。 「誕生日おめでとう」辞書は言った。 「ありがとう」僕は答えた。  辞書は八畳ほどのワンルームマンションに住んでいた。学生は誰も同じような所に住んでいる。違うのはその中身だ。彼女の場合は部屋のほとんどの壁が本棚に埋めつくされ、その侵攻を食い止めているのは僅かに壁の一面に置かれたベッドだけ。机はなく、かわりに部屋の中央に小さなテーブル。辞書はベッドに座って、こっちを見ている。端正な顔立ちで、首から足まで定規のように真っ直ぐで細い。僕はもう少しダイエットをしないといけない、と彼女を見る度に思う。  その夜、僕と辞書はベッドで横に並んで寝た。彼女の家には他に布団や毛布が無かったし、何もなしで眠るには盆地の街、楠市の冬は寒過ぎた。  もちろん、僕はこうなることが分かっていた。今までにも何度かこうして辞書の家に泊まったことがある。そして、だからこそ、僕は大人しく眠った。今頃もし尾上と二人どこかで眠ることになっていたなら、僕は彼に大人しく眠ってもらうことを求めただろう。  それでなくとも今日は十分にドラマチックな一日だった。来年一年分のドラマ性を使い果たしてしまったのではないかと、僕は考えながら眠った。明日からは砂漠みたいに退屈な毎日が続くんじゃないかと。もちろん実際はそうではなかった。ドラマ性には平均値も、正規分布もない。これは終わりではなく、始まりだった。  目を覚ますと、辞書はもう朝食の仕度をしていた。スクランブルエッグが小さなフライパンの上で踊っている。僕が体を起こすと、彼女はこちらを見て「おはよう」と言った。新婚夫婦みたいだと、僕は勝手に思った。 「これからどうするの」と辞書は言わなかった。僕はシャワーを浴びて、辞書のシャツを借りた。下着を買わないと。僕は思った。それからシャツとジーンズ、数は少ないけど欠かせない化粧品を幾つか、その化粧品を落とす道具も幾つか。  僕がバスルームから出ると、辞書はすっかり朝食の用意を済ませていた。僕は小さな声で「ありがとう」と言った。そして、二人で朝食を食べた。ほとんど無言で食べながら、テレビで流れるニュースを見た。最初のニュースはやはり楠市連続死体遺棄事件について。一昨日に見つかった遺体の身元が分かったと、ニュースは伝えていた。地元に住む二十歳の無職の女性です。キャスターが現在形でそう言うので、そのフレーズがやけに耳に残った。  死体の身元が分かったのはこれが初めてだった。新聞やテレビのニュースキャスターが言うには、それまでに見つかった死体は二体とも「残虐非道な手口で殺害された為」身元の判明もままならないとのこと。僕は、温情溢れる優しい手口の殺人について考えた。そんなものが存在するのだろうか? 辞書に聞いてみようかと思ったが、彼女が真剣な表情でテレビを見ごはんを食べて味噌汁を飲んでいたので、やめることにした。  辞書が話を切り出したのは、朝食を食べ終え、彼女が食器を全て洗い終えてからのことだった。 「面白いかもしれない話が一つ」彼女は言った。 「私の知人の一人が、住み込みのアルバイトを募集しているの。特に何かをしなければいけないということはなくて、ただ誰かと一緒に住みたいだけみたい。ルームメイト募集、給料付き。そう言ってもいいかも」 「不思議な話」僕は言った。 「不思議な人なの」彼女は言った。 「でも彼女の家に住む以上、彼女のルールは絶対に守らなければいけない。彼女が私に言ったの。絶対に必要な条件はただ一つ。ルールを守れる人間であること。ともあれ、それは彼女が判断するそうよ。会ってみる?」 「女なんだね」僕は言った。 「そう」辞書は言った。  僕は天井を見た。天井の汚い家の人間は信用するなと、父が言っていたことがある。父は、どこで手に入れたのか、素晴しい格言生成能力を持っている。毎日格言を言って過ごせる職があったなら、父はクビになるどころか十分な名誉を得ていただろう。辞書の家の天井は真っ白だった。僕は言った。「会ってみたいな」 「そう」辞書は言った。 「なら早く出かけなきゃ」  その日は昨日と違って、爽やかないい朝だった。太陽が中学の同級生くらい身近に感じられる、気持ちよい暖かな天気。家が焼けて灰と塵になってしまったことなど忘れてしまいそうな清々しさが、辞書の家を出た僕を包んだ。  辞書が先を歩き、僕は彼女のすぐ斜め右後ろを歩く。辞書は黙って歩いた。僕もそれに倣った。彼女は無口であるだけでなく、周囲にも静かさを求める人間だった。  雲行きが怪しくなってきたのは、十分ほどそうして歩いたころだった。どれだけ歩いても、辞書は僕のよく知った道から離れなかった。僕の「いつもの道」を彼女は歩き続けた。それでも僕は黙っていた。辞書はもちろん何も喋らなかった。目的地に着いて、彼女はようやく「ここよ」と言った。そこは大きなマンションだった。昨日僕が別れを告げたはずの、「213」のすぐ隣にあるマンションだった。  彼女が立ったのは、411号室。我が麗しき元恋人、麻木春子の住む305号室の斜め上。辞書がチャイムを鳴らした。やはりピロンと、無駄に甲高い音がした。返事は無かった。軽い既視感に僕は襲われた。辞書がもう一度チャイムを鳴らす。ピロン。僕と辞書はドアのむこうの様子を聞き耳立てて探ったが、何の物音もしなかった。辞書が小さく笑って僕を見た。僕は辞書の前に立って彼女の代わりにチャイムを押した。ピロン。もう一度。ピロン。 「誰なの?」唐突に返事がした。小さく、初めからドアの後ろに立っていたかのような、実に注意深い声だった。僕は辞書を見た。彼女は頷いて、言った。 「井上です。辞書です。以前に聞いたお仕事の件で、適任と思われる人を連れてきました」  二秒ほど沈黙。それから、ドアのチェーンをガチャガチャと外す音がした。ドアが薄く開かれる。僕はドアを手にかけ、そのままそっと開いた。  彼女の、Cの容貌についてはちゃんと言っておく必要があると思う。まず、腕。ワイヤーロープのように細く、関節の存在を忘れるくらいにしなやかに動く。そしてだらりと下げると、膝に届きそうなぐらいに長い。今でも彼女を思い浮かべると、一番にあのバランスの悪い腕を思い出す。  一方、足は腕と同じくらいに細いが、こちらは目を疑いたくなるくらいに短い。首は長く、小さくてまん丸い頭がその上に行儀良く鎮座している。身長は145センチくらい。総合すると、首と腕が伸びきったゴム人形の子供といった感じだ。髪は小学校の図工の授業で切ったかのように大雑把で短く、手入れの悪いスポーツマンといった風情。目と唇は細く長く、鼻は小さく短くて、誰か他の人の顔のミニチュアみたいだ。  その時の彼女は、恐らくは小学生用と思われるピンク色のパジャマを着ていた。そして結局彼女と別れるまで、Cの服装と言えばほぼいつも黄色か白かピンクの、薄く色褪せたパジャマだった。 「彼女がC」辞書は言った。 「便宜的にね」Cと呼ばれた女性は言った。くたびれた中学生のような笑顔を見せながら。 「私がCだと思うならあなたもそう呼べばいいけど、そう思わなかったり、もっといいアイデアがあったりするなら、そう呼べばいいのよ」 「本名は?」僕は辞書を見て言った。 「不粋な人」Cはそう言って笑った。 「無駄に真面目なんです」辞書がCに言った。僕の方を見ず。それを聞いてCはまた微笑んだ。 「まぁ、とにかく上がりなさい。今から寝るところだったんだけれど、でも折角来てくれたんだから、お相手しないとね」そう言って、Cは部屋の奥へと向かった。  部屋は春子のものと同じ間取りの八畳一間。春子がシングルベッドを置いていたのと同じ隅に、八畳には不似合いの立派なダブルベッドがある以外、ほとんど何も無い。どこかの家庭的な3LDKからベッドルームだけ抜き出してきたような部屋だった。  Cがキッチンの方へと消えると、辞書が僕の耳元で「彼女の本名は私も知らないの」とささやいた。  Cが冷蔵庫からコーヒー牛乳のパックを取り出して、グラスに注ぐ。「飲む?」と彼女は言った。辞書と僕は首を横に振る。Cは僕達の表情をたっぷり見つめた後、にっこり笑ってからグラス一杯のコーヒー牛乳をごくごくと飲み干した。そしてまたこちらを見て、 「何から話しましょうね」と言った。 「どれだけのことを聞いてきたの?」 「ルームメイトのようなもの募集。住み込み。あなたのルールを守ること」僕は言った。 「なるほど」Cはベッドに腰掛けて、言った。 「それがこの仕事の辞書的見解というわけね」  辞書は何も言わなかった。Cは構わず続けた。 「ルームメイトというのは私が彼女に説明した時に使った表現ではないのだけれど、なるほど確かにこれは営利型ルームメイトとでも呼ぶべきものかもしれない。もしくは、総合型ボディーガードとでも言うべきか。良ければ私をレイチェルと呼んでくれてもいいけど。ともかく、実の無い名前だけでなくちゃんとした私の紹介をしましょう。私のことはどれだけ聞いた?全く聞いてない?」  僕は頷いた。 「彼女は聞いたことしか答えないものね」Cは辞書を見ながら言った。 「もう一度言っておくと、私の名前はC。あるいはレイチェル、ホイットニー・ヒューストン。もっといい名前があると思うなら、そう呼んで頂戴。仕事は体の切り売り、世俗的に言う所の娼婦。週に二度、月曜日と木曜日はこのあたりのゴミの日で、私の仕事の日でもある。だからその日は、ここに来なくてもいい。あなたにとっては休日というわけ。いえ、来なくてもいいと言ったけど、実際には来てはいけない。これがルール2」 「ルール1は?」僕は尋ねた。反射的に。 「さっきあなたが言ったでしょ? 私のルールを守ること。これがルール1」  僕は頷いて見せた。それを見てCも頷いた。 「仕事の内容は、夜私が起きる前に私の家に来て、私が眠るまで私の相手をすること。このへんがルームメイト的。そう辞書は思ったのね。むしろ私に言わせれば、介護サービス的かしら。もっとも相手と言っても、何か大変なことをしろと言うわけじゃないの。下の世話をしろと言うのでもないし、食事を作れとも掃除をしろとも言わない。危害を加えることも多分ない。話し相手でいてくれればいいわ。千夜一夜物語みたいなものね。もっとも、あなたの話がつまらなくても殺しはしないから安心して」そう言って、彼女は笑った。僕もつられて、少し笑った。聞いて思ったほど突飛な話では無さそうだ。Cも、特にとっつきにくそうという風でもなし。僕は少し安心した。  だが、そんな僕の心理を見越したかのように、Cは急に厳しい顔になって言った。 「ただ、簡単な仕事とは思わないで頂戴。私はだいたい午後七時くらいに起きて、朝の十時には遅くても寝る。だからまずあなたは、この生活に慣れないといけない。月と木以外、毎日ね」彼女は言った。 「それから、私は時々唐突に全てが嫌になってしまうことがあるの。本当の意味でルームメイトが欲しいと思うのはそんな時。だからあなたは、私がそういった虚無感にさいなまされている時に全力で私の相手をしないといけない。私が如何にあなたに冷たく当たったとしてもね。虚無感で一杯になると私は不意に自殺を試みることがあるから、あなたはもちろんこれを止めなければいけない。私がロープで首を吊ろうとしたらあなたはそれを切らなければならないし、私が毒薬を飲みこんだらあなたはそれを吐かせなければならない」  僕は辞書の方を見た。辞書は僕の方を見ていたようだが、僕と視線が合う寸前に顔を背けた。 「もう一つ厄介なのは、私には敵がいるということ。敵はあらゆる手段で私とあなたのように私の側にいてくれる人の関係を妨害し、私を死に追いやろうとするわ。彼らは武器を持っているし、情報操作も巧み。さっき私はあなたに危害を加えることは多分ないと言ったけれど、敵はあなたにどんな危害を加えるか分からないし、ひょっとしたらあなたの命も危ないかもしれない。それは、残念だけど保証出来ない」 「敵?」僕は言った。 「そう」Cは言った。 「それは比喩的な意味ですか? それともなにか、具体的な」  Cはふぅ、と一つ深い息をついた。そして、 「今に分かるわ」と言った。  僕はもう一度辞書の方を見た。辞書は僕の視線を感じているはずだが、やはり僕の方を見なかった。そして辞書は僕の方を見ないまま突然、 「トルストイは?」と言った。 「トルストイ?」僕は言った。 「そうだ、彼を忘れていた」Cはそう言って、ベッドにかかった毛布をぱっと取った。  白い塊が毛布の下ベッドの端に、壁にもたれかかるようにして存在していた。僕は腰を浮かせて、それを覗きこんだ。「豚よ」辞書が同じように腰を浮かせて、僕の耳元でそっと言ってくれた。  トルストイという名前の豚は、眠っていた。体長は40センチくらい。じっとして動かず、ほとんど真っ白なその体は毛の生えた枕のようだ。 「彼の世話は私がするから、とりあえず仲良くなってもらえればそれでいいわ」Cは言った。 「豚をこんな間近で見たのは初めてです」僕は正直に言った。 「うまく慣れるかどうか」  それを聞いてCは少し笑った。そして彼女は毛布を優しくトルストイにかけ直して言った。 「あなたが慣れるかどうかは問題じゃないの。慣れてもらうから。問題は彼が慣れてくれるかよ。彼、こう見えて女の子には厳しいの。フェミニズムの裏返しね。理想と現実の狭間」 「豚がですか」僕は言った。 「トルストイ。名前があるのだからそう言って。とってもセンシティヴなんだから」Cは言った。 「お座りも出来る」辞書は言った。 「あの」僕は言った。 「どうしてトルストイなんですか? なにか深い意味が?」 「彼に聞いたのよ。何かいい名前はないかって。そうしたらトルストイ。トルストイって何かの名前?」Cは言った。 「彼に聞いたって、彼って? トルストイ?」僕は言った。 「馬鹿ね。トルストイが喋るはずないでしょう。大丈夫?」Cはまた笑って、言った。 「それで、トルストイってなんの名前なの?」 「作家」辞書は言った。 「あら、そういうこと」Cは言った。そしてまた僕を見て笑った。  落ち着こう。混乱しそうになった時、僕は円周率のことを考える。円周率は世界のどこに行っても、どんな状況でも、つねに同じだからだ。このやり方は辞書に教えてもらった。初めは半信半疑だったが、実際にやってみると不思議と落ち着いてしまう自分が恐い。どこまでも数える必要はない。十桁も言えれば十分だ。僕は喉の奥で呟く。3.14159265358979。オッケー、大丈夫。ただ僕と辞書と、Cという名前の女性と、文脈にはまだ現われない「彼」がロシアの文豪の名前をつけた豚が一匹いるだけじゃないか。  僕が落ち着きを取り戻すまでに何秒必要だったのだろう? Cは笑顔のまま、僕を見ていた。辞書は僕に興味を示さないふりをして、真っ白な壁の何もない模様を見ていた。僕は出来る限り自然な笑顔を生み出し、Cに向けた。  Cは僕の合図を読み取ったのか、 「さて、とりあえずそんなことかしら」と言った。 「何か質問はある?」 「二つあります」僕は答えた。 「どうぞ」 「まず、いつまでこの仕事を続ければいいのでしょう。後継者が現われるまで?」僕は言った。 「私が死ぬまでよ」Cは答えた。それから、 「そんな酷い顔をしないの。私と一緒に暮らすのはそんなに大変そう?」と言った。そして僕が返事をする前に、 「私は重い病気なの。以前に敵の毒薬を誤って飲まされてしまったから。多分あと半年も保たないわ」と言った。  僕はどんな表情をしていただろう? 僕が覚えているのは、とにかく僕は一通り彼女の言葉に頷いて返した、というだけだ。理解出来たにせよ、当然理解出来なかったにせよ。 「もう一つの質問は?」Cが尋ねた。 「はい」僕は答えた。 「給料は幾らになるんでしょうか?」  帰り道、僕は辞書を二歩後ろからついて歩いていた。Cは今晩から働いて、と言ってくれた。僕は面接に合格したのだ。  Cと辞書はどこで知り合ったのだろう、僕は考えた。僕の知っている辞書はいつも自分の家で本を読んでいるだけなのに、どこで得るのか、彼女には不思議な交友関係が沢山あるように思う。まだまだ僕には知らない辞書がこの世には存在する。僕はそう確信し、幸福な眩暈を感じた。昔に父が言った言葉を思い出す。「月の裏側に恐怖を感じるか希望を感じるかは人それぞれ」辞書にはまだまだ僕の知らない手札がある。それはスペードのエースか、ハートのクィーンか。それを見てみたい。僕は思った。そして今、僕はそれを見られる立場にある。昨日の今日というのに、僕はどこかで幸せを感じずにはいられなかった。救い難いことに。  太陽が南中を迎える前に、眩しく頭上で輝いていた。 「今からどうする?」辞書が振り返らずに、素気なく言った。 「夜まで寝かせてくれると嬉しいんだけど」精一杯素気ない声で、僕は返した。  そうして、僕達は辞書の家に戻った。途中でスーパーに立ち寄り、下着とシャツを掴み取りのように買った。家に帰ると、僕はそのまま寝た。辞書は僕が横になるのを見届け、どこかへ出かけて行った。つまり僕は辞書の家に一人残される格好。おかげで僕はなかなかちゃんと眠れなかった。起き上がることは一度も無かったが何度も目を覚まし、枕元の時計を見た。最後の記憶では時計はまだ午後一時を指していた。どうすればちゃんと眠りにつけるのだろうと本気で悩み始めた次の瞬間、僕は辞書に体を揺さぶられていた。僕は時計を見た。午後六時十五分だった。 「おはよう」辞書は言った。 「うん」僕はそう言うのが精一杯だった。  シャワーを浴びてから、僕は一人で411号室に向かった。例によって薄く開かれたドアから顔を覗かせたCは、朝より随分表情を固くし、どこか警戒しているように見えた。  初め僕は、この仕事は彼女が次から次へと注文を浴びせ、それにひたすら応えていけばいいものだと捉えていた。だが、一時間も経たない内にそれは間違いだと気付かされる。 「入って」Cは随分低いトーンで言った。朝にあれだけ見せた笑顔は全く無かった。 「合い鍵を渡すから、明日からは好きに入って来て頂戴」  Cは食事を用意しているところだった。バターの優しい匂いがした。 「朝と同じジーンズね」Cはキッチンに戻りながら言った。 「他は全部焼けてしまったんです」僕は言った。 「コートもシャツも下着も同じ?」Cは言った。 「コート以外は換えました」僕がそう言うと、Cはふむ、と鼻を鳴らした。 「嫌いな食べ物は?」Cは言った。その長い腕でフライパンを丁寧に返しながら。 「無いです」 「素晴らしい、と誉めてあげたいところだけど、どうしようかしらね。私自身が大学ノートを一冊埋めつくすぐらい嫌いな食べ物がある人間だから」そう言いながら、Cはフライパンを狭いキッチンの上に置き、別の鍋を火にかけた。 「とりあえず、料理は私が用意するつもり。もし嫌になったらあなたが作るなり、何か買ってくるなり。私は菜食主義で肉料理は一切出てこないだろうから、あなたが肉を食べないと死んじゃうなんて種類な人なら、それは私の知らないところでこっそり用意して食べること。肉は私に見せても駄目。視界の中に入れないで。特にあの肉はね。分かるでしょ?」 「了解です」僕は答えた。そうしている間にもCは鍋をコンロから外し、今度は小さな鉄のプレートを火に乗せる。狭いキッチンに一つだけ備えられたガスコンロを、Cは徹底的に酷使していた。僕は部屋の隅で丸くなって座るトルストイと、一緒にその勇姿をただ見守っていた。  その夜テーブルに並んだ料理を羅列してみよう。バターライス、豆腐のステーキに甘いベリーのソース、アサリとブロッコリーの入ったコンソメスープ。テーブルは明らかに一人用の小さなものなので、食器がひしめいて並んだ。Cにとってはこれが目覚めて最初の「朝ごはん」であるはずだったが、彼女は何の躊躇も逡巡も無く休むこと無くぱくぱくと料理を平らげていった。  料理はどれも、実に美味しかった。父の格言をまた一つ引用するなら「素人は貝類を使わない」ということだ。僕は「213」の料理を少し思い出した。味付けは全く異なる。西園栄一郎のそれはさっぱりと繊細なもの、Cのつくるものはきっちりと骨のあるもの。しかしそれでも、閉店後にマスターが料理を並べてくれた頃のことを僕は思い出さずにはいられなかった。僕は何故かいつも美味しいものを食べてばかりで、それでいて給料まで貰おうとしている。不思議といえば、不思議なことだ。  Cは料理中から食事を終えるまで、ほとんど何も喋らなかった。これはこのまま僕も黙っておくべきなのだろうか? それとも、話し相手として雇われているのだから、何か話すきっかけを作るべきなのだろうか。少し考えた後、僕は話を切り出した。 「あの」 「なに?」 「バターですよね」僕はさっきまでバターライスが乗っていた皿を指して言った。 「もちろん」Cは言った。 「動物性の油っていうのはいいんですか? その、菜食主義において」  Cは笑った。何の嫌味も無く、小さく、しかしとても楽しそうに。 「辞書が言っていたけど」Cは言った。 「あなたは本当に無駄に真面目君ね」 「はあ」僕は言った。 「それでこそ雇った甲斐があるのだけれどね。そう、一つだけ私の知っている世界のルールというのを教えてあげましょう。それはね、世界っていうのは適当に動いている、ってことよ。どれだけ意図的に意識的に、完全に計算ずくで動く人間がいたとしても、その傍らで彼の相棒は何も考えずに酒を飲んで吐いてたりするわけ。だから世界にルールを求めようとしては駄目。これが世界のルール。分かる?」 「ええ」僕は一応、頷いた。それを見てCも頷くと笑顔をぴたりと止め、またすぅと警戒するような表情に戻った。そして再び静かになった。  最初の一週間は、会話は全てこんな感じだった。Cは自分から話さない。しかし僕が何か興味を引くようなことを口にすると、待っていましたばかりに饒舌になり、時には笑顔も見せる。彼女は喋りたいだけ喋り、喋り尽くすまで喋り続ける。そして、それで終わり。僕は会話を続けることが出来ずに、仕方無く適当な返事をする。それを聞いてCは更に適当な返事を返し、警戒態勢に戻る。このようにして、沈黙が再び始まる。僕が口にしたことがCの興味を引かないようなものだったら、話はもっと簡単。僕ではなく彼女が適当な返事をして、それで終わりだった。微笑みを見せることもなし。  Cはだいたい起きている間いつも、テレビで映画を見るか、料理洗濯掃除などの家事をするか、何やら熱心にパソコンを触っている。映画は十数作品を彼女が「自選集」と呼ぶ数本のビデオテープにまとめており、それを繰り返し何度も見た。何しろ一日一時間ほどパソコンの前に向かっている時と料理洗濯掃除をしている時以外はほぼ常に映画を見ているわけだから、十数作品はあっという間に消費され、だいたい一週間も経ずに一回り見尽くすことになった。僕は彼女がこのペースとサイクルで映画を見続けることに驚き、心底呆れた。  そんなヘヴィローテーション作品の中でも特に彼女のお気に入りだったのが「シザーハンズ」、それから「アリゾナドリーム」。その二つの映画を見る時、彼女は最初からちゃんと涙を拭く為のタオルを膝元に用意してテレビの前に座った。 「ジョニー・デップがいいんですか?」見終わった後僕がそう聞くと、彼女は丸い涙を次々こぼしながら、 「ジョニーなんとかって誰よ」と怒りながら言った。  彼女は、だいたい何も知らなかった。それが会話を続ける上で一番難しい点だった。料理は本当に上手くて、僕はほぼ毎日食事をCの家で取ることになったが、飽きることは全く無かった。他の家事も彼女は見事にこなした。家事の領域において僕の出る幕は一ミリも無かった。仕事らしい仕事と言えば、溜まったゴミを持って帰ることと、必要になった食料や日用雑貨をリスト通り買いに行くことぐらいのものだった。彼女は鍋に何の野菜から入れるべきなのかを知っていたし、どうすれば風呂場の掃除を一番効率的に行なえるかを知っていた。だが彼女が知っているのはまさにそういった家事のことくらいで、世の中のことに関して言えば、彼女は一ノットも知らなかった。 「一ノットって?」ある日Cは言った。 「速度の単位です」僕は言った。 「何キロぐらいなの?」Cは言った。 「さぁ?」僕は答えた。  するとCはコンピューターの前に座り、かたかたとキーを叩いた。そして、言った。 「一・八五二キロメートルだって。一海里。分かった?」 「はい」僕はまた、適当な返事をした。会話終了。  僕が中学生の頃「会話に困ったら天気の話をしろ」と教えてくれたのは父だった。だが、Cに限ってはこの方法は通用しなかった。「今日は雨でしたよ」僕がそう言うとCは「そう」と答えた。興味が無いのだ。ずっと部屋の中にいるのだから、当然と言えば当然の話。会話のとっかかりになるのは万国共通で趣味の話だと誰かに聞いたことがある。だがCの趣味と言えば主演俳優も知らないまま繰り返し同じ映画を見ること、そしてパソコンにじっと向かって慎重そうにキーを叩くこと。これらの趣味のどこにとっかかりがあるというのだろう? 一週間、僕はCの部屋の前に来る度に今日こそなんとか巧く会話をしようと誓い、部屋を出る時にはいつも明日こそは何とか、と思い直した。だが、Cはなかなか警戒心を解かなかった。しかもそれでいて今の所、僕の仕事ぶりに何の不満も無さそうに振舞うのだった。  この時期僕は、仕事を首になることをかなり恐れていた。僕には家も無く、次の仕事のあてももちろん無い。それを探す気力も恐らく無い。もしこの仕事が無くなったら、僕はどうして行けばいいのだろう?  Cの家で仕事を始めて間も無いある日に一本の電話が携帯にかかってきて、その恐怖はますます大きなものになった。 「家が焼けたって聞いたけど」電話はママからだった。この携帯電話、結局ママからの電話ばかりのような気がする。 「今、寝泊まりはどこでしているの?」  ママらしい質問だ。僕は思った。その疑問はこの前の電話の時に浮かんでも十分おかしく無いはずだった。だがあの時のママには事前に用意していた他の質問があったから、僕の家が焼けてもそれはそれ、大方今になってようやく娘の所在を疑問に思ったのだろう。 「友達の所に住んでいるよ、ママ」僕は言った。 「一つだけ言っておくけど」ママは、僕の返事を聞いたか聞いていないか絶妙のタイミングで言った。 「こっちに戻って来たくなったらいつでも言うのよ。あなたの部屋はそのままにしてあるし、ママもパパも、あなたが働かないって言うならそれはそれでいいんだから」  僕は一瞬、窒息した。それは言葉の形をとった銃弾だった。そのママのアイデアは僕の心臓を撃ち抜いた。反動で電話が手からぽろりと落ちそうになったのを、僕は慌てて防いだ。 「聞いてる? ねぇ、あなたが良ければこっちはいつでもいいのよ」 「聞いてるよ。ありがとう」僕は何とかそう言った。 「でも、とりあえず大丈夫だよ。家も、仕事も、何とかなると思う」 「でもね」ママがもう一度、引き金に指をかけようとした。 「大丈夫だから。大丈夫」僕は必死にそう言った。 「ならいいけど」ママは珍しく会話を遮られ、黙った。 「とにかく、心配してくれてありがとう。お父さんにもよろしく。大丈夫だからって」僕は肺に残った空気と一緒に吐き出すようにそう言った。そしてママの返事を待たずに電話を切った。  その夜、夢を見た。父と将棋をする夢だった。家には父と二人きり。ママは朝から晩まで仕事だった。将棋は僕が簡単に勝った。父は集中力が無く、すぐに相手の角道を忘れる。「うん、お前は強くなったなぁ」父が言った。「さて、もう一局やるか」断る為の言葉が思い付かず、二人はもう一度将棋を始める。父は桂馬に気付かないまま、不用意にも飛車を一つ上げる…。  以来、僕はCの仕事に全力で取り組むことにした。この仕事が駄目だったら、僕はもうおしまいだった。もちろん人生はそれからも続くだろうが、それはただ続くだけだった。ママの保護の下、実家でゆっくり父と過ごす毎日。そんな状況は絶対に阻止しなければならなかった。  もっともそんな意気込みとは裏腹に、結局初めの一週間、Cとの会話が冴えることはほとんど無かった。まず映画を見ている間に、彼女は話しかけられることを拒んだ。筋道も台詞も完全に覚えているにも関わらず、話しかけられると気が散ると言うのだ。キーボードを叩いている間は、声をかけても反応が無いことがしばしばあった。故に会話を交わすチャンスは自然と食事の時に限られた。しかし、うまくいかなかった。だいたいいつも僕が「美味しい」と言うと、彼女が「何とかを何とかしたの」と塾講師のように冷たく答えた。僕がなんとか「何とかと言えば何とか何とか」と精一杯会話を繋げると、彼女は「ふぅん」と会話の終了を宣言した、その繰り返しだった。  それは、精神的に堪える日々だった。会話を続けることが義務化した場というのは、本当に辛いものだ。小学校の委員会みたいなものだ。それは僕の心を痛めつけた。「学校をよりよく綺麗にするにはどうすればいいでしょう?」なんてお題を先生が掲げ、小一時間ほど皆が怯えつつ黙り込むあの美化委員会のことを僕は思い出す。違うのは、あの時には同じように背中を丸くして先生の視線から逃げる仲間がいたが、今は正真正銘の孤独。  この仕事の堪える点はもう一つあった。それは文字通りの意味での構造的問題で、つまりCの部屋の斜め下には元恋人の部屋があるということだった。麻木春子の声や気配が床と壁を越えて伝わってくることは無かったが、気配の気配とでも呼ぶべき感触を味わうことは時々あった。Cと「クレイマー・クレイマー」を観ていた夜の二時に、ベッドにそろりと入って電気を消す春子の姿がふと脳裏に浮かぶことがあった。彼女のすっと、幽体離脱でも始めたかのように静かな眠り方。僕が「おやすみ」と言うと春子が「おやすみ」と言い、それから僕が携帯電話の電源を切ってから彼女の方を見ると、もう彼女は眠っているのだ。  構造的問題と言えば、春子の部屋とCの部屋が全く同じ造りなのも問題だった。同じマンションなのだから当然と言えば当然なのだが、ベッドの位置まで同じなのは頂けなかった。しかも春子の部屋にはシングルベッドだったというのに、Cの部屋には何故かダブルベッドがあるのだ。ベッドの脇には窓があって、同じような安物のカーテンから同じ太陽の日射しが見える。僕はかつて春子とシングルベッドで一緒に眠り、今はトルストイが枕に寝そべるダブルベッドにもたれかかって映画を観ている。皮肉なことだ。かつて太陽の光は睡眠時間から仕事時間へ切り換えのシャッターとなるものだったが、今では仕事時間から睡眠時間へのシャッターになっていた。正直に言うと、僕は時々、Cを春子と呼びそうになることがあった。Cの部屋から出た後、つい「213」の方へ歩いてしまうこともあった。  僕は自分に言い聞かせた。寝起きの悪い春子はもうここにはいない、と。同じ八畳一間の部屋だが、とにかく春子はいない。いるのは豚が一匹と、ドラキュラのように光から隠れて生活する女。もっとも、それを言うなら僕だってここ数日はまさに「光から隠れて生活する女」だったが。望んでのことか、望まれてのことかの違いはあったにしろ。  そして今本当に問題なのは、そういった構造的問題では無いはずだった。僕は自分に言い聞かせた。本当に問題なのはどうして仕事が始まった途端、Cは僕に警戒をするようになったのか、ということだ。このままではいつ「あなたはこの仕事に向いていない」と言われても不思議ではない。あの時と同じだ。彼女は不満めいたことを全く言わないまま僕を首にして、実家に送るのだ。  転機が訪れたのは、先にも言った通り、一週間が過ぎてからだった。何事にも物事には原因がある、というと「そんなルールはない」とCに否定されるだろうか?  一月の二日だった。僕が働き始めて丁度一週間目が経った。気が付いたらいつの間にか一年が終わって、新しい一年が始まっている。こんなに感慨の無い年越しは初めてだった。 「どこで区切るかの問題でしょ」Cは僕に言った。 「他にも年度末って考え方があるし、誕生日で一つ歳を取るし、旧正月で区切る人までいるんだし。一体何度一年を区切ればいいわけ? 区切りなんてどうでもいいのよ。どうしても必要なら六月二十日あたりで区切ったらどう? みんなそのうち忘れちゃうからいいんじゃないの」  最初にCが言った通り月曜日と木曜日は休みだったから、この日が六度目の仕事だった。仕事の無い日は、結局また辞書の家に厄介になった。いつまでこんな生活を続けられるのだろうと思いながら、僕は続けた。  その日はCがエビの入ったいつも通り濃いクリームソースのフィットチーネをつくった。いつも通りの美味しさで、僕は誉め、彼女は素気無く流した。僕はその反応に慣れつつ、彼女の対応はどうあれ称賛の為の語彙を増やす必要があると思った。今の僕の言葉が及ばないくらいに美味しいのは事実なのだから。  それから、僕達は「昼下がりの情事」を観た。見終わるとCはパソコンに向かい始めて、そしてまた会話の存在しない場になった。 「面白い映画でしたけど」僕は何とか言葉を捻り出そうとしていた。 「これは恋人達の為の映画ですね。女同士で見るというのも不思議なものです」  結果的に、僕の挑戦は成功した。何十度目にしてようやく、言葉がその難産に報われるものになった。おそらくは報われるものになったはずだ。少なくとも新しい展開を導くことに、僕は成功した。それが望んだものであったか、また予期したものであったかは別にして。  Cは、僕の感想を聞くと、いつもより二回りほど慎重な面持ちで言った。 「一つだけ質問」  僕はその言い回しからママを思い出して、少し身構えて言った。 「なんですか?」 「ここに来てから、何か変わったことは無い?」Cは言った。  僕はキッチンの方をちらりと見た。トルストイがポテトサラダを食べている。Cの方を見直すと、彼女は慎重というより真剣と言えるような顔でこちらを見続けていた。 「あの、多分無いと思います」僕は言った。 「多分?」 「いえ、全く無いです」僕は言い直した。 「全く? 例えば寝つきが悪くなるようなことは無い?」 「夜型の生活にはすぐに慣れました」僕は言った。 「思いにふけって何も手につかないことは?」 「もともと何もしていませんから」僕は言った。 「熱っぽく感じることは? 動悸が突然激しくなることは? 目を閉じるといつも同じ映像が浮かんできたり、同じことを何度も何度も考えたり、明日のことが楽しくて仕方無い気分になったかと思えば、明日が恐くて動く気力も出なくなったりするようなことは?」 「それはつまり、」僕はそうとだけ言って、続ける言葉に窮した。 「あのね、」Cは言った。ここにきて、微笑みながら。 「私と一緒にいて何とも思わない?」  僕は視線をCから外した。トルストイは鼻にマヨネーズをつけながらポテトサラダを食べ続けていた。 「私に何か特別な感情を抱いたことは?」Cは、言った。 「あの」僕は言った。喉が涸れそうだ。 「それはどういう意味ですか?」 「文字通りの意味よ」  僕は考えた。何を考えれば良いのか分からなかったので、何を考えるべきかを考え、何を考えるべきか考えるべきかを考えた。  Cはそんな僕に構わず言った。 「質問を変えましょう、真面目君。あなた性欲はある?」 「あの」僕は言おうとした。だが、Cが遮った。 「いいえ、無いなんて言わないでね。性欲さえ無ければ人間、王様にだって何にだってなれるんだから」そしてCは僕を強く見つめて、 「でもあなたは王様じゃない。女王様でも王女様でも王子様でもない」と言った。  僕はCの言葉を聞きながら、円周率のことを考えていた。3.14。僕は言った。 「性欲はあります」馬鹿な発言だ。 「でもそれがどうかしましたか?」 「オーケー」Cは言った。 「あなたの勝ちよ。あなたは王女様。望めば何にだってなれるわ。この部屋の中ではね」  Cは立ち上がるとキッチンへ向かい、トルストイの皿にポテトサラダのおかわりを盛った。そして小さく「類は友を呼ぶ、ということね」と言った。 「つまり?」僕は言った。 「例外は例外で群れを成して存在するということ。あなたと辞書のように」 「例外、何が例外なんですか? 性欲と、それから眠れないこととも、どういう関係が?」  Cがこちらを向いた。あれ程続いた身構えた表情は消え、笑顔も消え、ただ呆然とした顔つきで僕を見た。 「私はね、ものすごく魅力的な人間なの」Cは言った。  僕は、窮した。何と答えればいいのだろう? 「そうですね」? 「そうですか」? 「はあ」実際にはそう答えた。 「あなた、私が好き好んで家に引き込もっているのだと思っているんでしょう? 人と関係を持ちたくない、嫌いな人と会いたくない、人混みが嫌、社会にうんざり、太陽と埃と鴉と自動車の渋滞に我慢出来ない。そんな人間だと思っているんでしょう?」 「えぇと」僕は何とか言葉を、どこからか取り出そうとした。しかし出来なかった。 「私はね、魅力的なの。自分ではどうにも出来ない世界が世の中にはあるでしょう? 私の魅力というのは、その世界に存在する物事なの。私にとって世界とは、イコールどうにも出来ない世界なのよ。この魅力のせいでね。あなたと、それから辞書には影響を及ぼさないみたいだけどね」  Cはそこで大きく息を吸った。そして吐いた。 「母もそうだったわ。私の魅力が分からない例外の一人だった。だから私が学校に通うのにどれだけ苦労しているか分からなかった。父は私の魅力を知っていた。知り過ぎていた。だから時々、下着が部屋から無くなっても、私は誰にも言えなかった」Cは淡々と続けた。 「組織は私を狙っている。私の魅力を利用すれば一財産築けるだろうと思っている。私も、その目論見が間違っていると思わない。彼等は私に、組織の言いなりになるよう精神を変調させる薬を飲ませた。でも私の体はその薬を受けつけず、彼等の奴隷にはならなかった。一方で私はその薬で体を壊し、こうして残り僅かの命となった」 「あの、」僕は言った。 「魅力というのが、その、分からなくて。具体的に言うと」 「魅力は魅力でしょ」Cは言った。 「老若男女、国籍不問、全ての人達を惹きつけてやまない力を私は持っているの。あなたと辞書と私の母を除く全ての人達を惹きつけ、やまない力」  僕は時計を見た。午前三時。外は暗闇。話も理解出来ない。僕は再び言葉を探ったが、手持ちは何もなし。仕方無く、黙ったままでまたCを見た。 「いいでしょう」Cは僕と視線を合わすなり言った。 「昔の偉い人は言いました。見ることは信じること。今からどこかへ行きましょう。どこか近く、騒ぎになってもすぐに帰って来られるところにね」そう言ってCは立ち上がると、白のパジャマを脱ぎ始めた。 「これはあなたが望んだことなのだからね。あなたに理解力があれば、問題を起こさずに済んだのよ」 「もう問題が起きたような言い方ですね」僕は言った。 「起きるのよ。定まっているなら、未来も過去も変わらないでしょ」  Cはブラをつけ、紺色のワンピースを着た。その上から地味な紺色の薄いコート。それほど丈の長いコートでは無いのだが、彼女が着るとロングコートのようだ。加えて紺色のニットキャップ、彼女の顔を半分以上覆うかのような紺色のサングラス。少女マンガに出てくる、実際には絶対にいない類の女スパイのような格好だ。 「紺は嫌いだけど、暗闇に溶けるのは事実だから」Cは誰に聞かせるでもなく言った。僕は黙って見守っていた。その時の僕に何が出来たというだろう? それとも、僕はいつもこんなことばっかり言っているだろうか?  コンビニエンスストア「ジャム」は、暗闇の支配する時間でも孤独に眩しく輝いていた。僕が前を歩き、Cが後ろに隠れるように歩く。そこまで、マンションから十分程の距離だった。通りを行き交う人間はゼロ。なにしろ午前三時なのだ。風が皮膚を削るように冷たい。僕は考えた。冬の深夜に散歩をするのは健康的なこころがけだろうかと。 「ジャム」入口。自動ドアの前で僕は立ち止まった。Cは僕の後で立ち止まる。中には雑誌コーナーで立ち読みをしている男が一人、レジに女性客が一人、その相手をしている男の店員が一人。僕はドアマットを踏んだ。入口がすっと開き、店内のむっとする熱気が体を打つ。「いらっしゃいませ」店員が女性客にレシートを渡しながら、こちらをちらりと見てそう言う。 「一度だけよ」背中の方から、そう声がした。そしてCは僕の後ろから現れると、サングラスを外して僕に手渡した。  女性客が受けとったレシートをそのままゴミ箱に捨てると、出口の方に向き直った。彼女が火種役だった。あるいは最初の被害者。あるいは加害者。もしくは犠牲者と言うべきか。 「うそ」女性客が言った。三十過ぎの大柄な女性だった。分厚い黒のコートをやぼったく着ている。その彼女がこちらを向いた途端、左手に今買った商品を入れたビニール袋を持ったまま動かない。 「あなたを見ているんじゃないからね」Cが振り返って言う。そして、スナック菓子が並ぶ棚の方へ歩く。Cの言う通り、女性客は首だけを動かすような形でCの行く先を追っていた。「そんな」女性客が呟く。  首から下が凍りついたかのように動かない客を、店員が不思議そうに眺めている。彼が僕の方を向いた。それから、客の視線の先へ。陰になって見えないのだろうか、少しレジに身を乗り出すような形で、店員が覗き込んだ。 「あぁ」店員が言った。漏らした、と言うべきか。そして、そのままレジに倒れ込んだ。レジの上に置いてあった煙草のケースが倒れ落ち、派手な音がした。だが女性客は何の反応も示さず、まだ固まっている。ただ、Cの方を見ている。じっと、正確に。  雑誌を読んでいた男が、煙草ケースが転がる音を聞いてレジの方へやってきた。まだ高校生ぐらいの若い男だ。床に散らばる各種セブンスターを見て、どうした? と男は目で僕に尋ねた。僕は、僕じゃない、と目で彼に訴えた。男は視線を女性客に移し、また僕を見る。僕じゃない。男は首を振る。そして、ついに男の視線がCに辿り付く。  彼は倒れなかった。振り向いたCと目を合わせても、彼は震えながら立ち続けた。男が言った。 「これはお嬢さん」随分とうわずった、猫撫で声で。 「まさかこんな所でお会い出来るとは思いもよりませんでした」  Cは男を無視して、棚からポッキーの箱を二三取る。それから、そのままぐるりと店内を周り、入口の方に戻る。「もう分かったでしょ、行くわよ」Cが小さく言う。 「ちょっと待って!」そう言ったのは女性客だった。 「あなたは誰? 名前は? ねぇ、どこに住んでいるの? この近く?」言葉を思い出したかのように、彼女が喋り続ける。 「早く」Cが店を出る。店員はまだ動かない。僕は振り返って、Cに続く。 「あなたは僕と共にいるべきなのが分からないのかい」男が呪文のようにそう言い、突然走り出した。 「急いで」Cも言うが早いか、走り出す。僕も慌ててそれに続く。男が追いかけてくる。かなり速い。 「お願い! あなたは誰!? それだけでいいから教えて!」女性客の声が後ろから聞こえる。彼女も追いかけてきているのだろうか。僕には分からない。外は暗闇。「愛してる!」女の声だ。Cは前方を凄いピッチで走っている。僕も全力で走っているのだがCにまるで追いつかない。一方で後ろの男の足音がどんどん大きくなる。Cの後ろ姿はどんどん小さくなる。僕の足が特に遅いというわけではないはずだ。Cがとてつもないスピードで走っているのだ。彼女のあの細い足のどこに、そんな力があるのだろう? 脳の酸素がどんどん少なくなっていくような気分の中で、漠然とそんなことを考える。「自分の家に帰りなさい! 仕事はまた明日!」Cの声が遠くから聞こえる。前なのか後ろなのかもよく分からない。男は何も喋らないが、息を吸って吐く音がすぐそこに聞こえる。振り返るのも恐い。高校生男子、体育の授業で鍛えているのだろうか。そんな馬鹿なことを考える。足音は二つ。ぺたぺたと力無い僕のもの。がしゅ、がしゅ、とコンクリートを掘るかのような男のもの。他に足音は聞こえない。Cは消えた。がしゅ、がしゅ。耳の後ろに男の乱暴な息が届く。吐いてはすぐ苦しそうに吸う呼吸音。男のものなのか、自分のものなのか分からない。心臓がタンゴを踊っている。聞きなれないリズム。背後からは太いビート。がしゅ。何故か腕が痛い。痺れるような痛み。足の感覚は分からない。がしゅ、がしゅ。このままだと捕まるのも時間の問題。そう思った瞬間、男が僕の横に並ぶ。僕はストライドを目一杯広げ、目を閉じる。がしゅ、がしゅ。タンゴは止まず、ビートの変化もなし。何も起きない。うっすら目を開くと、男が僕の前にいる。追い越したのだ。トップを狙う駅伝のランナーのようにあっさりと。何の躊躇も無く。僕は、少しずつ速度を落とす。男がどんどん離れていく。僕が追いかけていたんだったっけ? 状況が飲み込めないまま、僕はようやく立ち止まった。男はもう五十メートル以上先を走っている。Cの姿はもちろん見えない。後ろを振り返ったが、もう誰もいない。男の足音がどんどん遠くなり、また元の静かな夜に戻った。ただ自分の乱れた呼吸だけが、耳を刺激していた。それと心臓のタンゴが、クライマックスを迎えている。その音を聞きながら、ヘモグロビンが酸素を全身に送っているのだろう。一度動きを止めた自分の足が、彫刻のように重い。足だけではない。全身が、前衛芸術のようにバラバラになった気分だ。腕が痛い。腕ってこんなに重かったっけ。僕は少しずつ歩きながら考えた。何メートル走ったのだろう? 四百メートル以上、八百メートル以下といったところか。体力が必要だと、僕は痛感した。  僕は家に戻った。もちろんそれは僕の家ではなかった。僕の家は灰と炭になったのだ。それは辞書の家だった。三時半、少し前。まだ「ジャム」に入って半時間も経っていない。部屋の電気が付いているのが見えて、僕は少しほっとした。呼吸はだいたい整っていたが、体は重いままだった。  僕はチャイムを鳴らした。ドアはすぐに開き、辞書が怪訝そうな表情で僕を迎えた。 「あのね、」僕はそう口を開くと、辞書は、 「彼女から電話があったところ」と言った。 「そう」僕は言った。助かった、と僕は思った。体力が限りなくゼロに近い。精神的なもののせいもあるのだろう。口を開くのも億劫だった。  僕は辞書の部屋に上がり、床に座り込んだ。辞書がグラスにお茶を入れて、僕に手渡した。「ありがとう」僕はなんとか口を動かした。 「もう一本電話があったの」辞書は言った。 「それもCから?」僕は言った。辞書は首を横に振って、 「麻木さんから。あなたともう一度やり直したい、って」と言った。  二秒沈黙。 「そう言ったの?」沈黙の後、僕は言った。 「そう言った」辞書は言った。  僕は鞄の中から自分の携帯電話を取り出した。着信無し。彼女はどうして直接僕に電話せず、わざわざ辞書の家に電話をしたのだろう? 僕は想像する。彼女が平然と「理由なんて無いけど」と言う様を。どうして辞書の家にいることを知っているのだろう? 僕は思う。彼女の染色体には、僕や辞書とは違うものが混入しているに違いないと。あるいは、僕や辞書に彼女と違う染色体が混入しているのか。 「電話する?」と辞書は言わなかった。僕は、忘れることにした。忘れようとすることにした。脳の「忘れること」フォルダに入れた。「至急忘却」の付箋を記憶に貼りつけた。そして僕は眠った。  正確に言うと、一月三日は、眠る前から既にこの世界に存在した。Cと「ジャム」に着いたのは午前三時頃、もう一月三日のことだった。だから一月三日は、大変な幕開けだったと言える。だが感覚的に言うと、一月三日は平和な一日だった。「ジャム」から始まる一連の出来事は何となしに一月二日のことにした。僕はそれに過去の烙印を押したのだ。  Cには感覚が全てだったから、いつものように夜の七時に彼女の家に辿り着いた時、彼女は「昨日は大丈夫だった?」と言った。「まだ今日のことですよ」と答えたら、Cはどんな顔をしただろう? 実際には、僕は普通に「大丈夫でした」と答えた。辞書ならやはり「まだ今日のことですよ」と答えただろうか、と考えながら。 「そちらこそ大丈夫でしたか?」僕は一応そう聞いた。一応というのは、目の前にいつもと変わらぬCが存在する以上、大きな災難は何も発生していないということがすぐに見てとれたからだ。 「したっぱで助かったわ」Cは言った。 「あれが組織の幹部クラスなら、私もあなたも捕まっていたでしょうね」  僕は適当な返事をした。具体的にどんな返事をしてCの組織話を終わらせたのかは、自分でもよく分からない。ただ誰でも人と付き合うようになると、適当な返事が巧くなる。自分でも知らない間に。  Cがグラタンを焼いた。茹でたイカが沢山入ったグラタンだった。Cはオーブンの様子を見守りながら、テンポの外れた曲を口笛で吹いた。彼女は上機嫌だった。 「どうかしました?」僕は言った。 「別に」笑いながら、Cは言った。  夕食の後、二人でまた「クレイマー・クレイマー」を見た。Cはいつもに増してよく笑い、泣いた。僕はと言えば完全に退屈していた。Cの家で二度、その前にも一度観た映画だった。「名作は何度観ても良い」とは言うが、一週間に何度観ても良い映画というのはそう無いはずだ。  あり難いことにと言うべきか、あるいは、もちろん、とでも言うべきか、Cは僕を退屈なままにはさせなかった。彼女は種なのだ。ありとあらゆるトラブルが生まれる種。誰かが栄養をやって適切な温度に保てば、幾らでもトラブルを生んでくれる種。彼女は自分で料理を作って栄養を補給するし、部屋はいつも暖房のお陰で十九度を保っている。トラブルが次々と生まれるのも、至極当然のことだ。 「明日の夜は暇よね」彼女は映画を観終えてすぐ、新しいトラブルの口火を切った。 「明日ですか?」僕は例によって唐突な彼女の喋り方に混乱した。僕はビデオデッキのイジェクトボタンを押して、テープが出てくるのを待っていたところだった。Cはさっきまでパジャマの裾で涙を押さえていた。今は、目元に残る跡がその過去を示しているだけだった。 「明日は月曜日。仕事はお休み。だから暇でしょ?」彼女は、何か愉快な動物をあやすように言った。論理学を理解しない子供に嘘の三段論法を教えるような言い方だった。  それでも、その言い方に反抗する気は無かった。この世で最も恐ろしい力を前にして、僕は一つ一つ反抗する気力を失いつつあった。この世の最も恐ろしい力、即ち、慣れを前に。  実際明日の予定は、手帳を開くまでもなく確認出来た。そもそも手帳なんて持っていなかった。一週間に五日、半日をこの部屋で過ごしているのだ。しかも本来、人間が非生産的な方の半日を。そして残りの半日は睡眠がほとんど。一週間の残りの二日は、これまで何もしていなかった。辞書の家で、やはり生産的な方の半日を寝て過ごし、非生産的な方を起きて過ごした。一度ホラー映画を借りてきたが、辞書が嫌そうな顔を見せたので観ることは無かった。夜中のかなりの時間を辞書は僕と一緒に無為に過ごしてくれたが、彼女が眠ると宣言した後は、僕は静かに部屋の隅で本を読み、ふらりと外に出ては深夜の学生の街を歩いたりした。  ほとんどの時間をCか辞書と共有していたので不思議と気付かなかったが、考えようによっては、僕は孤独な人間だった。そんな表現が許されるとするなら。僕は就職に遅れる間に大学時代の友人をほとんど失った。恋人も失い、残ったのは辞書と尾上だけだった。しかし尾上は消防士に捕まってから、どうしているのか知らない。時々電話でもしようかと思いつつ、何を喋ればいいのか分からないので実行に移せないでいる。春子にも電話すべきなのだろうか? それは孤独であるというよりむしろ、孤独から抜け出す力を持たないとでも言うべき状態だった。ひょっとすると、僕は孤独に慣れてしまったのかもしれない。  ともかく、僕を中心に見た人間関係からはどうあがいても休みの日に予定は入らない。デートの予定も無く、家族旅行の予定もゼミや講義の予定も、急な先方の願いで外回りをする予定も無い。誰かから電話。「もしもし、明日の夜は暇?」そんなことがあればどんなに幸福だろう。でも誰がそんな電話をよこしてくれる? 「暇なのね。いいでしょう、認めなくていいから聞いて」Cは言った。 「簡単なこと。私になって欲しいの。私になって、私のかわりに人に会って頂戴。それで、その人がどんな人だったかを明後日にでも私に伝えて。原稿用紙三枚以内に簡潔にまとめて」  Cはそう言い、僕をじっと見た。僕もCを見た。僕がCを見ているのを見て、Cが笑った。そして「原稿用紙っていうのは冗談よ」と言った。 「人って誰ですか?」僕は言った。 「乗り気?」Cはまた笑った。 「話を聞いているだけです」僕は言った。 「その調子よ、真面目君。でもその人については、私もよく知らない。ネットで知り合ったのよ。そしてまだ、ネットでしか知り合っていない。私達は彼を『うさぎ』と呼んでいる。本名は分からない。年も。性別は一応男みたいだけど、ひょっとしたら女かもしれない。日本語の流暢な外国人かもしれないし、私が書いたメイルに適当な返事を書くだけの言語生成プログラムかもしれない」Cは言った。 「どうして会う必要があるのですか」 「会ってみたいからよ」Cは言った。 「でも私じゃ駄目。体調の問題もあるし、いつ組織に狙われるかも分からない。でも会ってみたい。『うさぎ』はなかなか好奇心をそそる人なのよ。それに私の勘では、かなりいい男だと思う。これまで私もネットを通して色々な人と知り合ったけど、こんなに興味を惹かれる人はいなかったわ。もっとも誰一人として実際に会うことは無かったから、私がいつも抱く勘が当たっているか間違っているか確認出来ていないのだけど。いえ、誰一人、っていうのは嘘ね。辞書とはネットで知り合ったんだから。これは思った通りだったわ。ま、それはさておいて、とにかく、今回は確認したいのよ。会って、私の勘が正しいのかを確かめたいし、向こうがどんな人なのか知りたい。つまり、そのね」Cは一つ咳をした。 「うさぎはきっと素敵な人よ。文体からそれと分かる。かなり個人的なことをお互いに書いているから、残念ながらメイルを見せるわけにはいかないけど。でも面倒なことにはきっとならない。私が思う限りね。あれがもしプログラムによる文章なのだとしたら、人間社会はもう終わり。ちゃんとした人よ、きっとね」Cはそう言った。どこか自分に喋っているように僕には見えた。 「簡単なことじゃないと思います」僕は言った。 「あなたと、その、うさぎという人がどういうやりとりをしているのか僕には分からないし、それを見せるわけにもいかないと言う。例え外見が騙せたとしても、かなり個人的なことまでお互いに知っているというのに、何も知らない僕がちゃんとつじつまが合うように会話が出来るとは思えません」 「あのね」Cは言った。 「私が言うちゃんとした人っていうのはつまり、嘘がバレたとしても、誠実に対応してくれるであろう人ってことよ」  僕は唖然として、Cを見た。Cはにっこり笑っていた。そしてそのまま、目を閉じてしまった。 「残念ながら、あなたはもうこの話に興味津々」Cは目を閉じたまま言った。 「ちゃんとボーナスも出すから安心して。それにもし露呈したら、僕はCよりずっと魅力的な人間です、って言ってあげればいいのよ」  Cがゆっくり目を開いた。そして言った。 「乗る? 乗らない?」  その夜、Cに言われて僕は早目に家に戻った。辞書の家の前に着いた時、丁度太陽が山と山の合間から顔を出していた。辞書は起きていた。「麻木さんから電話が二度」と辞書は言った。僕は頷いて、ベッドに倒れ込んだ。  死体が連続して見つかる以前、楠市で特筆すべきことと言えば三つだけだった。一つは湿度。四方山に囲まれた盆地のこの街は、毎年夏にとてつもない湿度を記録する。天候自体夏暑く、冬寒いのは先にも言った通り。突然の雨も多く、人の気分を逆撫ですることに関してこの街の天候は天下一品だった。  二つ目は大学の数。国立大から私立大、それから各種専門学校。決して広くないこの街は大学と学生マンションで埋めつくされている。「213」がいつもそこそこ繁盛していたのもそのお陰だ。街のカフェは毎日学生で溢れ、図書館は院生で満ち、居酒屋は助手と助教授で一杯。石を投げれば学生に当たり、毎週どこかで名誉教授が死ぬ、楠市はそういう街だった。  三つ目は駅。学生と院生と助手と助教授と名誉教授の数のおかげでどうにか地方都市と呼べる規模になった楠市の南部には、誰もが不相応と認める巨大な駅があった。通称ビッグTと呼ばれるこの駅は、三つのデパートと専門店街、市役所に市の中央郵便局で構成された実に巨大な建造物である。市の偉い議員はこの駅が完成すれば市の経済は活性化し、貧乏な学生や大学助手と彼等に安価で定食を提供するような商売ではなく、まともに金を持った人間とそれを支える商業が流入してくると信じていたようだ。だが実際は、市の商業が駅周辺に集中し、その他の商店街や専門店が次々と潰れただけだった。  駅の北は地理的にも感覚的にも市の中心地で、特に多くの大学と学生マンションが密集した地域である。僕の焼けたマンションもCと春子のマンションも辞書のマンションも、あるいは「213」も僕が通った大学も、全て駅から見れば北側にあった。  対称的に駅の南には、ほとんど何も無い。再開発で映画館や誰も住まない高級マンションが並ぶ狭い地域を抜けると、すぐに緑豊かな世界に到達する。歩道は狭く、車道は広い。市外から来た車や市内から出る車が、交互になかなかの速度で飛ばして行く。  何も無いな。僕は辞書に借りた自転車をこぎながら改めて思った。一月前に来たときもそんな感想を抱いたのを覚えている。本当にこのあたりは、ほとんど何も無い。ただ緑、ただ車。僕は時計を見た。午後一時、二十五分。待ち合わせは一時半。思ったより、駅から遠い。十分前には到着していたかったなと思い、そんな心配をしている自分を笑った。  到着したのは一時半丁度。僕は時計を見て一つ溜息をつき、目的地を見てもう一つ溜息をついた。やはりやめておけば良かったなと、最初に思ったのがこの時だった。それからは何度そう思ったか分からない。  目的地の名前は楠市立動物園。小さいながらライオンもキリンもペンギンもいる、立派な動物園だった。もちろん象も、春子と三人で一緒に写った象もいるはずの、動物園だった。  僕は動物園のすぐ隣にある自転車置き場に自転車を置いた。大きく一つ深呼吸。Cに借りた白いハンドバッグから辞書に借りたコンパクトを取り出し、自分の姿を再確認した。目の下に残る薄いくまが気になる。それから、その服装も。 「お互いどんな人間なのか一切知らないで、どうやって会うんですか」僕はCに尋ねていた。 「心配無用。こっちの特徴はちゃんと伝えているから」Cは誇らしげに言った。 「特徴って?」僕は自分の顔を思い返しながら言った。 「これ、いいと思わない?」Cは疑問形に疑問形で返した。彼女の手にはいつの間にか、ベッドの下から取り出したスカートがあった。ピンクの分厚いロングスカート。 「真面目君にも着られるものを考えたら、これくらいしか無かったのよね」Cはスカートを僕に押しつけながら言った。 「これが特徴ですか? これが?」僕は言った。Cは笑って言った。 「人生を楽しんで」  僕は今や自分の下半身を覆っているスカートを見る。丈もウェストも、不思議なくらいに丁度だ。王子様の舞踊会に参加した帰りの階段で慌てて脱げ落ちてしまったピンクのロングスカート。自転車の運転には邪魔で仕方が無い。色はどこまでも、まピンク。切りとったら美大生が色見本に使うだろう。だいたいこのスカート、Cには明らかに丈が長過ぎるし、くやしいかな、ウェストも太過ぎる。これはCのお古なんかじゃなくて、間違いなく僕の為に購入されたものだ。  これはCの悪戯心の産物だろうか、それとも趣味によるものだろうか。後者なら許されるというわけでも無く、むしろ前者の方が若干の救いがあるように思えた。とは言え、全て焼けてしまってから下はジーンズばかりだったから、ちょっとした懐かしさを感じていたのも事実。救い難いのは僕だろうか。  僕は自転車置き場から出た。どこかにピンクのロングスカートを目印に待つ人間、恐らくは男がいる。趣味の悪い世界だと、僕は思った。  動物園の正門に辿り着く。正門に据えられた時計は遅れていて、まだ一時二十四分だった。  一人、男がいた。時計の真下、正門によりかかるように立っている。背の高い男で、黒いスーツを隙無く着ている。男はこちらに気付き、にっこりと笑った。その距離、約七メートル。彼は立ったまま動かない。僕は近付く。彼の姿が、顔の形が、表情が、どんどんと鮮明になってくる。脳が突然、活発に動き始める。記憶を探りに、過去へと進む。  僕は男の前に立った。男は体を起こして、真っ直に立つ。斜め上に見える顔が、更に上へ。男は笑ったままの表情から、もう一段階強い笑みへと移行する。何か言うのかなと僕は身構えたが、彼は何も言わなかった。少しの間。僕は自分から口を開くことにした。 「こんにちは」僕はそう言った。  男はそれを聞くと、小さくおじぎをした。記憶が脳の中で騒いでいる。一年前、二年前。男は姿勢を戻すとスーツの胸ポケットから紙を取り出した。そしてそれを僕に手渡した。 【こんにちは 私が『うさぎ』です】紙にはそう書かれてあった。僕は彼を見た。そうしている間にも、脳は動き、シナプスが過去へ。三年前、五年前、いや、まだ。  彼は手の甲をゆっくり返し、手の平を見せた。僕はその動作を理解し、受けとった紙の裏側を見ようとした。七年前。いや、正確には紙の裏側ではなく、表側か。最初に見たのが裏側だっただから。脳は動きを止めない。十年前?  その紙は名刺だった。表にはこう書かれてあった。 【フリーライター 大井劍】  記憶がある時点へと辿り着く。十二年前。僕はまだ僕ではなかった。小学校六年生。全てが鮮明だった時代が鮮明に戻る。大井くん。覚えている限りの断片的なデータが目の前の彼と結び付き、あるいは結び付こうとする。この瞳、手、まっすぐ立ったつもりでいる時の膝の曲がり方。幾つかが過去と現実の狭間を越えて繋がり、幾つかが狭間に落ちる。同姓同名なんてことは? 記憶と現実が即座に否定する。大丈夫、さすがにそこまで鈍くなんかない。  僕は今一度、彼を見上げた。彼の頭の中でも化学反応が始まっているのだろうか? 記憶の時間旅行が始まっているだろうか? 彼は笑顔のまま、表情が読み取れない。 「こんにちは」僕は言った。声が震えていたかは分からない。ともかく、まずは最初の予定通りに。 「私が、『パジャマ』です」それがCの、ネット世界における名前だった。仮面の上の仮面。 【お会い出来て光栄です】大井くんが、そう書かれた紙を取り出して僕に見せた。ごく自然に。気付いていない、あるいは覚えていない。その動作を見て、僕はそう確信した。  彼は紙を胸元に戻すと、左手を僕に差し伸べた。握手? 僕は左手でそれを握った。すると彼は困ったような顔を少し見せて、握られた素早く手を離した。それからすぐ右手で僕の左手を掴み、そのまま離さずに歩き始めた。僕はどうすることも出来ず、そのまま引き連れられた。  彼が事前に買っていたらしいチケットを入口の係員に渡した。中年女性の係員が、乱暴に二枚のチケットをまとめてちぎる。大人一枚、四百円の借り。彼の右手は凍えるように冷たい。そして小指までしっかりと手の甲に巻きついて離れない。その時僕が抱いていた感情は、溢れそうな懐かしさと処理の出来ない喜び、小型ナイフのような恐怖。公園の真ん中に立って大声で笑い出したいような気分でもあったし、個室トイレで一人になって少し泣きたくもあった。  彼は構わず、歩いた。僕の手を十分過ぎるほどしっかりと握って。 「あの」僕は言った。笑わずに、泣かずに。 「手を」  彼はこちらを見て目を細めると、一本一本、指を僕の手から離した。入口入ってすぐにいたシマウマが振り返り、こちらの様子をじっと見ていた。前に春子と来た時もそこにいたシマウマだった。あなたのことは知っているよ。そうシマウマに言われているような気がした。僕もそう言うべきなのだろうか。大井くん、私はあなたを知っているよ、と。  でも、それを言って何になる?  一月四日、月曜日。三が日を休園した動物園では今年最初の開園日だったが、中にはほとんどお客さんがいなかった。時々、小さな子供を連れた母親を見かける程度。たまにお客さんがいたと思ったら、さっきと同じ母親と同じ子供。そんな所に、僕は彼といた。  彼、大井くん、あるいはうさぎと、僕は歩いた。レッサーパンダ、アシカのプール、オランウータン、ゴリラの山と、裏にある檻。個室になっていて、それぞれの名前と歴史が檻の下に書かれている。ゆうき、たいき、みかん。大井くんが熱心に彼等の生い立ちを読む。山を抜けても、ほ乳類の行列は続く。ピューマ、トラ、キバノロ、あかカンガルー。手を離してから彼は三十センチ以内に近付かず、一メートル以上離れず、無言のままで衛星のように僕の周囲をぐるぐると歩いていた。そして時々思い出したようにメモに何かを書き、一人で納得している。  彼がワラビーの方へと歩き出すので、僕もカンガルーから離れた。隣にはツル、「フクロウの館」と標識に書かれた建物。彼がワラビーの前を素通りし、ツルの方へと進む。僕もそれに続く。彼がこちらに振り向き、にこりと笑った。離れずに歩いているのは、僕の方なのだろうか。そう気付いてワラビーの前で足取りを止めると、彼がそのままこちらにやってくる。一メートルの境界を、少しだけ越えそうになったところだったのに。彼は何事も無かったかのようにそのまま僕の目の前でワラビーの方を見る。三匹のワラビーは隅で小さく並び、動かない。彼がまた懐からメモとペンを取り出して何か書き、初めてそれを僕に見せた。 【昼寝中のようだ】小さく丁寧な字で、メモにはそう書かれていた。 「あの」僕は言った。彼がこちらをじっと見る。 「喋れないんですか、それとも」  彼はちょっと眉をしかめる。それから少し首を振る。そしてまたメモに何か書き、僕に手渡す。 【何か飲み物を買ってくるよ 何がいい?】  僕は黙った。三秒くらい。でもそれが限界だった。沈黙を続けることが僕には出来なかった。僕は小さく「コーヒー」と呟いた。彼は頷くと、ゴリラの山の方へと小走りをして消えた。  逃げ出してもいいはずだと、僕は思った。Cは面白半分で思い付いただけ。うさぎは初恋の相手だったので逃げて来たと報告すれば、彼女はそれで十分満足するだろう。  その時になってようやく、僕は一つの可能性に気付いた。Cはうさぎの正体を知っていたのではないか、という可能性。うさぎが大井くんだと知った上で、僕に引き会わせたのではないか。でも何故引き会わせる必要がある? 面白いから? とにかく、偶然にしては上手く出来すぎている。でもどうやって彼を見つけ出した? 運命の輪が少々不思議な風に回転したか、あるいはそれ以前の時点で、やはり大いなる偶然が存在したか。  つまりこれが偶然でないとしたら、やはり偶然なのではないだろうか。現実を理解可能なぎりぎりの大きさにまで区切ると、偶然しか残らない。そんな話を思い出した僕は考える。僕が振ったサイコロの値が何になるかを決めているのは、雲の上で神様の振るサイコロなのだろうか。  僕は歩き始めた。逃げるようにではなく、悠然と。立ち止まることと走り出すことの妥協の末に。ワラビーにさよならを告げ、フクロウの館の横を抜けた。ラマ、カバ、フラミンゴ。バイソンとダチョウが向かい合う道を通り、園の一つの隅に辿り着いた。そこにはヒグマがいた。檻の中でヒグマは眠っている。檻の外にはもう一回りの檻があって、そこには「きけん てをださないで」と書かれてある。一方、僕のまわりには動物園の終わりを示す冊。とはいえ、厳重なヒグマの二重の檻に比べると、高さ一メートルほどしか無いその冊はなんとも呑気な感じがする。そして、冊の向こうはすぐ山だ。動物園から山に抜け出す人間もその逆も、いないと考えてのことだろう。正しい判断だと、その時の僕は思った。  がさがさと、地面を蹴る音がした。反射的にヒグマを見たが、彼だか彼女だかは全く動いていない。音は背後から聞こえたものだった。一人の男がこちらに走ってくる。がさがさと足下の砂を蹴り、大急ぎで。うさぎではない。彼よりは一回り以上小さい。薄い青のジーンズに、赤い斑点のついたベージュのハーフコート。彼はダチョウにもヒグマにも目もくれず僕の隣を素通りし、動物園と山とを区切る呑気な冊に手をかけると、それを簡単に乗り越え、山の方へ下り立った。  そこで初めて、彼は僕と目があった。彼がするりと冊を越えて、しかしまだ冊に手をかけていたその瞬間、彼の視線が僕のそれと交差して止まった。  彼は言った。 「やあ」  いつもと同じ、力の入らない言い方。尾上修平、消防士に連行されて以来の対面だった。  何を口にすれば良かったのだろう? それを考えるのに何秒が与えられたのだろう? どちらも今の僕には分からない。十秒くらい経っただろうか? それとも二秒もあっただろうか。ただ、とにかく十分な時間ではなかった。十分じゃない間、僕達は冊を隔てて見つめ合い、何も喋らなかった。 「奇遇だったね」声を発したのは尾上の方だった。そしてその言葉を合図に、彼は山の奥へと再び走り出し、視界から消えた。  僕は一分前からの出来事を、頭の中で何度も描いた。それからも、何度となく。彼がよく着ていたベージュのハーフコート。一面ベージュで、ちょっと気取り過ぎているようにも思えたあの服。一体、デザインとして相応しくないあの赤の斑点はいつ生まれたのだろう? そして、あれは何の赤なのか? 後者の答えはもちろん、すぐそこにあった。手を伸ばせば届くところに。だが、僕の脳はそこまで辿りつかない。僕の脳に腕は無いのだ。防火扉が下りる音が、どこかで聞こえたような気がした。火がその向こうで燃え広がる音も。  こちらに歩いてくるうさぎが見えた。ざくざくと音をたてながら、ゆっくりと。僕の五十センチ程前にまで近付いてから、彼は僕にメモを見せた。【探したよ】と書いてあった。 「ごめんなさい」と僕は言った。彼は何も言わず、何のメモも見せず、缶ジュースを僕に手渡した。びっくりするくらい熱いコーヒー缶。「ありがとう」僕は言った。彼は微笑んだ。  これが十二年前の出来事だったら、私は喜んだだろうか? 彼を優しい人だと思っただろうか? 僕が僕になる過程で、何か大切なものが失われ、変わってしまったのだろうか。それとも大井くんがうさぎになる過程で、何か大切なものが失われ、変わってしまったのだろうか。  あるいは、尾上が切手を失って、何かが変わってしまったのだろうか。 【動こう】うさぎはそう書いたメモをひらひらと僕に見せ、歩き始めた。動きたくない、と僕は思った。あの冊から離れたくない。しかし足は、彼に連なられて動いた。フラミンゴの角まで戻り、隣のホッキョクグマへ。クジャクとムササビの檻を抜けると、ちょっとした広場へ出た。檻に入らない動物の為の広場。万が一でも暴れるようなことがあると檻を破壊する恐れもあるこの動物には檻ではなく、人間の侵入を防ぐ冊と、動物の侵出を防ぐ堀とで境界を築いている。この前に見たのはいつだったかな。孫を連れたおじいさんにシャッターを押して貰ってから、まだ一月も経っていないんだっけ?  あの時と同じ象が、こちらを見ている。来たくなかったけど、ついにここまで来てしまった。そんな感じだった。僕は無意識的に、象へと近付いた。象は僕の意識には無関心に、ぶらぶらと己の広場を歩く。うさぎは後ろで満足そうに腕を組んだまま、象か、あるいは僕か、僕のピンクのスカートを見ている。それ以外には何も無い。誰一人いない。母も子供も。あのおじいさんも孫もいない。まるで貸し切りだった。  僕は堀のすぐ手前にある冊にまで近付いた。象は相変らず、自由に歩いている。ゆっくりと気ままに。少なくとも、見た限りにおいては。あのおじいさんはよくぴったりと僕と春子と象の写真を撮れたものだと、僕は変な感心の仕方をしていた。防火扉のこちら側で、そんなことを僕は考えていたのだった。  堀を見たのは、別に何かの意図があってのことじゃない。世の中全ての行動に意図があるわけじゃない。少なくとも、僕はそう思っている。後になって警察に聞かれた時も、僕はそう答えた。動物園に行けば象もフラミンゴも見るし、注意書きも檻も見る。植えている木も、自動販売機に並ぶ懐かしいジュースも、空の雲も、それぞれの動物が食べているそれぞれの餌も見る。堀も見る。何かがあると思ったからではなく何もないと分かっているから、その確認の為に見るのだ。  しかし堀には何かがあった。堀の底、二メートルほど下に。赤黒い塊。丁度人間くらいの大きさと思ってから、それがまさに人間だと気付くまで一秒とかからなかった。防火扉はその時既に、もう大方焼けてしまっていたのだ。あの白く見えるものは、腕だ。その中で一層白く見えるものが骨。あとは赤く、赤い、赤の斑点。  防火扉が焼ける音。僕の頭の中で何かが回転し始めた。何を生み出すわけでもなく、ただぐるぐると。円周率のことを僕は思った。3。それから1。それから4。もう一度1。5。それから9。僕はただ思った。いつまでも終わらない円周率のことを。  僕が何か声をあげたのだろうか、あるいは後ろから何か異変を感じ取ったのか、それともただ僕と同じように無意識的になのか。ともかくうさぎが僕の隣までやってきた。最初の瞬間はにこにこと僕を見ていたが、すぐに視線は堀の方へと移動した。彼の顔が今日最初の表情へぐにゃりと変化していくのが分かった。僕もあんな顔をしていたのだろうか。  彼は言った。短く。 「そんな」  それだけだった。しかしそれは哀しいくらいにかつてと同じ、大井くんの声だった。  僕には、そう聞こえた。  2。それから6。円周率は、まだ続いていた。まだまだ。  楠市連続死体遺棄事件、四人目の犠牲者はそのようにして発見された。僕は警察に電話し、うさぎは受付に走った。この時僕が死体の側で一人残った為に、後々警察に長々色々聞かれることになった。うさぎはすぐ、受付にいた中年の女性を連れてきた。彼女がこの場にいて何になるのだろうと僕は少し思った。彼女は死体を見て、ひゃあ、と小さく叫んだ。ホラー映画には大きな声で恐怖を叫ぶ為だけに存在する人間が沢山出演するが、彼女の叫びは実に小さく、それ故に奇妙な現実感があった。現実感? 新しい防火扉の存在を、僕は感じた。現実感なんか問題じゃないぞ。僕は自分に強く言う。これは現実そのものなんだから。  すぐに警察もやってきた。彼等が最初にしたことは、僕達と死体の距離を広げることだった。パトカーに生まれて初めて乗り、あっという間に駅すぐそばの警察署に連れられた。自転車はどうなるのだろう? なんて、どうでもいいことを僕は考えていた。それから、うさぎは動物園までどうやって来たのだろう、と。僕はうさぎと引き離され、雑然とした狭い部屋に案内された。  すぐに現れた刑事とその同類数名は、誰も僕達が犯人だとは思っていないようだった。彼等は好意的だった。攻撃的な言い方は一つもなし。極めて丁寧に、礼儀を持って彼等は僕に接した。だからと言って幸せな身分だとは思えなかったが。  僕は象に至るまでの過程と、象に至ってからの過程をゆっくりと説明した。ラマ、カバ、フラミンゴ、一つ一つ。刑事らしき男は一つ一つ頷き、時々思い出したようにさりげなく質問した。「そこまでで不審な人を見掛けませんでしたか?」僕は答えた。「いいえ」それから心の中で言った。そこまでは不審な人になんか会っていません。説明を止めると尾上の姿が頭に浮かび、口からそのイメージが漏れ出そうだった。そのイメージの断片だけでも読み取れるのだろうか、男は説明を何度も自然な風に中断してみせては、僕の表情を見ていた。 「一緒だった男は?」彼は言った。「今日初めて知り会った人です」僕は言った。 「初めて?」彼は言った。「ネットで知り会ったんです」僕がそう言うと、彼は理解力のある父親のように何度も頷いた。友好的な頷き方という題目の完璧なジェスチャーだった。  尾上のことを話すべきか、あるいは話さざるべきか、それが問題だった。だが結局、僕は話さなかった。そう決意したわけではなく、話す決意が最後まで生まれなかっただけだ。  周囲には常に刑事か、もしくはそんな風に見える人間か二三人存在した。一人の男が中心でずっと僕に向かいあって座り、話を聞き、話を遮り、話を促した。他の男達は入れ替わりたち替わり。うさぎも別の部屋で別の人間から同じように話を聞かれているのだろう。僕はその光景を想像した。彼はちゃんと説明しているのだろうか? そして、どうやって説明しているのだろうか? まだあのメモ書きを続けているんじゃないだろうか。  一通りの説明が終わると、反対尋問が始まった。それまで見なかった一人の太った男が部屋に入り、中心の男にメモを手渡した。うさぎのメモ用紙だ。僕は即座に認識した。僕は少し笑い出したくなった。しかしもちろんそうはしなかった。  男はメモを読んで、こう言った。「さっき、今日初めて知り会ったと言ったね」 「一緒にいた男と」男はメモから顔を上げ、僕を真正面から見た。 「そうです」僕は言った。極めて冷静に、少なくともそのつもりで。 「奇妙なことだが、あなたと一緒にいた男はそうじゃないと言っている」男はそう言った。僕は、何とも答えなかった。 「彼曰く、あなたは小学校の同級生。ネットで知り合ったとは向こうも言っているが、すぐにお互い旧知の仲だと気付いたと」 「そうですか」僕は言った。どれだけ冷静に言えたか、僕には分からない。 「僕は気付きませんでした」 「なるほど」男はまた同じように頷いて言った。 「世の中奇妙なことが起きるもんだ」  それが終了の合図だった。部屋に入った時からずっと座っていた彼が立ち上がり、僕に手を差し伸べた。僕は手を受けとって、立ち上がった。「またお話を伺うことがあるかもしれないが」彼は乱暴に敬語を使って言った。「これも運命だと思って諦めて頂けると有難い。とにかくご協力に感謝します」  さっき入って来た、太った男が言った。「ちなみに、例の死体の身元はまだ分かっていません」 「誰かの失踪話を聞いたら、噂だと思っても、すぐに連絡して下さい」  僕は形式的に頷き、その部屋を出た。一人で警察署の中を歩き、外へ出た。どこかでうさぎに出食わすのではないかと少し不安を抱えながら。しかし結局、僕はとことん一人だった。時計が午後六時を指している。外はもう真っ暗で、いつものようにかなり冷えていた。自転車。僕はそう思って、諦めた。何にせよ、明日。今日はもう何もする気がしなかった。一回り旅行をしてきた感覚だった。時間の中を、干支で一周分だけ。僕は、くたくただった。  僕は携帯電話を取り出した。どうするか決めているのに、僕はまた迷うふりをした。誰に電話をすべきなのか。辞書か、Cか、それとも尾上か。どういうつもりなのと、僕はCに電話したかった。同じことを、尾上にも言ってやりたかった。だけどそうはしなかった。格好だけの迷いが生む結論は、今回も同じだった。僕はボタンを押す。電話が辞書を呼び始めた。三秒経過。そして、相手に繋がる。 「もしもし」僕は言った。 「あぁ」返って来た辞書の言葉は、とても辞書のものとは思えない、隙のある言葉だった。 「もしもし?」電話番号を間違えたかと、僕は一瞬思った。メモリーに記憶させた番号が変化したか、僕が操作を間違えたか。 「電話しようと思っていたところだったの」辞書は言った。  僕は身構えた。本日何度目のことだろうか。しかも、今度の相手は辞書だ。大袈裟な表現は絶対に用いないし、派手な言い回しは派手な事態に対してしか使用しない。 「どうしたの?」構えたまま、僕は言った。左ストレートを警戒、右フックも警戒。しかし飛んで来たのは、見事なまでのアッパーカットだった。辞書は言った。 「Cが死んだわ」  僕はリングに倒れ込んだ。  Cの葬儀は翌日になった。彼女の父親が喪主を務めることになった。その時になって初めて、Cにも両親がいることを僕は認識した。彼女から両親の話を聞いたにも関わらず。僕が辞書にそう言うと、辞書も同感だったと答えた。  Cが亡くなったのは午後五時過ぎ。彼女と彼女の両親は、その日夕食を共にする予定だった。午後五時少し前に三人はビッグTで待ち合わせをし、レストランの予約時間までデパートを目的もなく、少し歩いていた。Cが倒れたのは、三人が紳士服売り場で父親のネクタイを見ている時だった。彼女の母親がストライプのネクタイを手に取り、CとCの父親に見せた。Cの父は笑い、Cは否定した。「趣味が悪いんだから」Cは言った。「私だったら」Cはそう言って、手を伸ばした。そして、そのまま倒れた。それが最期だった。  両親はすぐに売り場にいた店員を呼び、店員は電話に走った。その店員は緊急時のマニュアルを必死になって思い出しながら行動したのだろう。だが結局、手が震えて電話機のボタンが押せないその店員にかわって救急車を呼んだのは、Cの父親だった。 「そうです」Cの父親は受話器をしっかり握って、言った。「えぇ、彼女はその、病気でした」過去形で。  辞書と僕は、同じ説明をCの母親から受けた。葬儀の始まる二時間前、主人のいなくなった、Cの部屋で。Cの母親から会いたいと言われたのだ。 「何の病気かは言えません。彼女の為にも」母親は言った。 「一年程前に分かりました。あの子は、それで、残りは私の好きにさせてと言いました。食事も、生活も、何もかも。一人で住みたいと、あの子は言いました」母親は、淡々と言った。 「私達は、それを認めました。市内に住むこと。週に二度は顔を見せること。私達が顔を合わせるのは月曜日と木曜日だけになりましたが、あの子の顔色は良くなりました。とても」  僕と辞書は、ただ黙ってその話を聞いた。Cが僕達に何と言っていたかは、僕達は言わなかった。彼女の母親も聞かなかった。  Cの母親は、一枚の紙を取り出した。 「あの子のコートの中にありました」母親は言った。 「いつも持ち歩いていたんです」  それは遺書だった。何枚かあった中の一枚なのだろう。その一枚は、そこには無いページを認める接続詞から始まっていた。 「それから、辞書と真面目君へ。  あなた達には、私の部屋にある物をどれでも持って行くことを許可します。  でも欲張りは禁物。一つだけにしましょうね。  追記。  私からのお薦めを書いておきます。参考までに。  辞書へ。『世界ユーモア大事典』全十五冊。  真面目君へ。  トルストイ。また仕事を失ったあなたの、今月の食費を抑える為にも」  僕は部屋をぐるりと見渡した。辞書もそうした。もちろん『世界ユーモア大事典』なんてどこにも無かった。僕はトルストイを抱いた。むぅ、とトルストイはうめいた。「食べないよ」と僕が言うと、トルストイがもう一度うめいた。むぅ。Cの母親がそれを聞いて、ごく小さく笑った。 「彼女の遺志には反しますが、これを頂こうと思います」辞書は言った。そして、部屋の隅にあるパソコンを指差した。「どうぞ」とCの母親が言った。  葬儀場は、駅前商店街から一つ入ったところにあった。よく知ったあたりの、そこにあると知らなかった建物が葬儀場だった。僕と辞書はCの母親と別れると、その足でそこへ向かった。辞書はパソコンを後日郵送してもらうことにしたが、トルストイは一緒に梱包するわけにもいかず、結果僕は静かな豚を抱いたまま葬儀に出席した。  早めに到着したつもりだったが、そこにはもう大勢の人がいた。入口には「故渡辺瑛子葬儀場」と書かれていた。それがCの本名だった。自分が名付けたのではなく、両親が名付けた名前。それが仮面の下の素顔だった。そして僕達はその素顔にただ困惑した。メイクをさっぱり落とすと平凡な顔になってしまう女優のようだった。いや、彼女はまさしく女優だった。Cは芸名だった。ここは舞台で、僕達は観客だった。そして今は、カーテンコール。大勢の観客の拍手を受け、彼女は一礼して退場するのだ。  葬儀では知らない人達が泣いていた。僕はそこでCが二十五歳だったことを知った。彼女が東北の生まれであることを知った。彼女が中学生の時に楠市に引っ越して来たことも知った。彼女が大学で社会学を専攻し、卒業後入院するまで一年強の間、ビッグT内のデパートで働いていたことも知った。彼女は自分がかつて働いたその場所で、最期を迎えたのだった。彼女が店員だったら、彼女が倒れた時も冷静に対処出来たかもしれないなと、僕は少し思った。彼女が店員だったら、趣味の悪いネクタイをさも当然そうに客に押しつけたかもしれないなと、僕は思った。  僕達と同じくらいの年代の人がその場にはいた。だいぶ年上の人間もいた。知っている人間は、自分と辞書と、服を着替えて現れた彼女の母親。範囲を人間からほ乳類に広げるなら、プラス豚が一匹。それだけだった。後の数十人は、誰も全く知らなかった。棺の中のCでさえ、知らない人間に見えた。僕にとって彼女は渡辺瑛子という名前の知らない女性で、Cとは別人だった。彼女は下に細い綿パン、上には真っ白のシャツを着ていた。今では、彼女は本物の人形のようだった。パジャマ姿でない彼女を見たのは、結局二度だけだった。そもそも、彼女と出会ってまだ二週間も経っていなかった。  トルストイを抱いた僕を、その場にいる誰もがちらちらと見た。僕が彼等を知らないように、彼等も僕を知らないのだ。僕と、僕達。Cという名前のことも、トルストイのことも、うさぎのことも。その場にいる誰もがそういったことを知らずに、彼女と付き合っていたのだ。僕の知る彼女の全てを彼等は知らないのだ。  だが、何事にも例外はある。その場にはもう一人だけ、僕の知る彼女を知る人間がいた。葬儀が終了して僕達が帰るタイミングを理解出来ないでいる時、僕は彼に再会した。それは、まだ高校生くらいの若い男だった。コンビニエンスストアで雑誌を立ち読みしていたあの男。彼は入口のあたりで上を向いたままぼんやりと立っていた。彼はちゃんと黒のスーツを着ていた。ネクタイの柄が違ったら、卒業式と言っても通りそうだった。  僕が彼に気付くと、彼も僕に気付いた。 「これはこれは」と彼は言った。優しく、信じられないくらいに切ない声で。そしてトルストイに目をやり、 「元気だったかい、トルストイ」と言った。古い恋人に偶然会ってしまった時に出すような、柔らかい声だった。「ジャム」で会った時とはまるで違う男の声。違う男のようだ。隣の辞書が僕を見た。僕は首を縦に小さく振った。  彼は、トルストイに手を伸ばし、撫でた。トルストイは何の反応も無く、ただおとなしく撫でられていた。 「彼女の誕生日の時に、僕がプレゼントした。一年前のことだ」彼は優しく、どこかの国の昔話のように言った。 「と言っても、実際はほんの少しだけ僕がお金を出しただけなのだけど。ほとんど彼女が自分で買ったようなもんだよ。僕は、そんなにお金を持っていなかったからね。今も」  そう言いながら、彼はトルストイを撫で続けた。 「今は君のものなのか」彼は言った。微かに疑問形かと思わせるくらいの抑揚で。  僕は頷いた。彼はトルストイに目をやったまま、視界の隅でそれを見てとった。  彼は言った。 「その子を…」そして、黙った。彼はまた上を向いた。何も無い天井を彼は見ていた。彼は少しだけ泣いていた。ほんの少しの水滴が、彼の意思に逆らって瞳の端から零れる。重力の思うままに。  彼が僕を見た。そして言った。 「その子を、少しだけ抱かせてくれないか」  僕は頷き、そのままトルストイを彼に差し出した。声が出てこなかった。彼はそれをゆっくり受け取り、さらにゆっくりと撫でた。トルストイを抱いている間、彼は何も言わなかった。涙も見せなかった。僕もやはり何も言わなかった。もちろん辞書も。 「ありがとう」と言って、彼はトルストイを僕にそっと手渡した。僕の腕に移る瞬間、トルストイは、ふが、と言った。彼はそれを聞くとまわれ右をして、ゆっくり葬儀場から出て行った。  ママから電話があったのはその日の夜遅くだった。僕と辞書も眠れずに、かといって何かをする気にもなれず、何かを話す気にもなれず、じっと二人で座っていた。電話が鳴ったのはそんな時だった。 「一つだけ。あなた春休みはいつ帰ってくるの?」ママは言った。  地球は僕達の意向に関わらず回転し続けている。円周率は決して変化しない。僕はそんなことを思ったが、実際にはこう言った。 「ママ、もう学生じゃないんだから。春休みなんて無いのよ」 「でも春のうちに一度帰って来るんでしょう?」 「あのね、ママ」僕は言った。 「ここ二週間ほどの間に色々なことがあって、ちょっと混乱しているの。だから今は何も考えられない。特にそんな先のことなんて。分かってくれる?」 「大丈夫」僕の賢明なるママは笑いながら言った。 「あなた、混乱している時に自分が混乱していることを理解している人なんてそういないわよ」 「ありがとう」僕は言った。 「どういたしまして」 「とにかく、また連絡するから」 「了解。ま、したいようにしなさい。出来れば帰って来て欲しいけど」ママは言った。 「分かった」僕は言った。 「お父さんにもよろしく」そう言って、電話を切ろうとした。その時、ママは言った。 「お父さん? お父さんならここにいるわよ。ちょっと待って」  一秒の半分くらいの間。あっという間のことで、僕は何も言えなかった。 「もしもし、元気か」電話口に現れたのは、確かに父だった。 「うん」なんとか出てきた言葉は、その程度のものだった。 「混乱ってなんの話だ」父は言った。 「うん、まぁ、そのね」僕は言葉を、一秒の半分くらいの間にほとんど落としてしまっていた。  しかし父は、僕のそんな状態を気にせず喋った。 「いい諺があるぞ」まずそう言った。何でも格言にする。いつものパターンだ。 「人間、混乱した時に本当に信じられるのは三つだけという話だ。だがその三つを信じることが出来れば、どんな状況でも参らず、なんとか生きていけるという」 「三つって何なの?」僕は言った。 「それは」父は言った。 「お前が春休みに戻って来た時に話すとしよう」  そして「あんまり遅くまで起きているなよ。おやすみ」と言い、父は電話を切った。  両親の希望通り、僕は実家に戻った。三月の頭の話だ。 「本当に信じられる三つのこと」について、父は僕が尋ねるまで忘れていた。完全に。ただ「よく戻って来たな」と父は言った。ちなみにママは「あら、帰ってきたの」と言った。  実家には五日間滞在した。僕と父は毎日将棋をし、僕は父に一度も負けなかった。最後の日の最後の局で、父は遂に「もうお前には勝てないんだな」と言った。そこまでに、二十局以上の対戦が必要だった。以前の勝負も含めると膨大な数になる戦いの中で、ようやく父が得た結論だった。  実家から戻って来た後、僕達は引っ越しをした。女が二人と豚が一匹で快適に住める、これまでより広い家を借りたのだった。古びた2LDKのマンションで、辞書には八畳の部屋を、僕には六畳の部屋を割り当てた。もっともそれぞれの荷物を運び入れた結果、狭くなったのはむしろ辞書の部屋の方だったが。  そしてその引っ越しの時に、辞書はCのコンピューターを処分した。どこで探してきたのかプレス業者に依頼して、破壊して貰ったのだ。僕達の目の前でCのデスクトップコンピューターは単位面積あたり数百キロの力を受け、文字通り粉々になった。 「ハードディスクだけでもいいんじゃないですかね」奇妙な依頼を受けた業者は、執行を前にしてそんなことを言った。それを聞いて、辞書は言った。 「私もそう言いました。すると彼女はこう言いました。『概念的なものよ』と」  業者は理解に苦しむように頭を振ってから、執行を始めた。辞書は僕に言った。 「Cが言ったの『分からなかったことは、分からないままでいいのよ。夏休みの宿題以外わね』って」  僕達はバラバラになったコンピューターの、何か重要だったのであろう部品の破片を一つずつ受け取り、家に戻った。帰り道、辞書はさり気なく言った。 「もし私が先に死んだら、私のコンピューターも同じようにして欲しい」  僕は「そうする」と言った。  同じ日、僕は僕と春子と象が映った写真を処分した。その処分にプレス業者は必要無かった。写真立てからその写真を抜きとり、丸めてゴミ箱に捨てるだけだった。翌日辞書がゴミ箱に入ったゴミを事務的にビニール袋に入れ、すぐ向かいにあるゴミ捨て場に出した。それだけの話。  僕は再オープンした「213」で働くことになった。その経緯は、僕自身未だ理解出来ていない。ただし、結果は理解している。二月下旬のある日にマスターから電話がかかってきた。マスターはこう言った。「うちでまた働かないか」それが結果だ。僕は驚いて詳しい話を聞こうとしたが、マスターはただ笑うばかりで、ほとんど喋らなかった。なんとか彼が教えてくれたところによると、マスター西園栄一郎とその妻はいざ離婚届を正式に役所に提出する段階になって、遂に、あるいは何故か、お互いの愛を再発見した、ということらしかった。 「お互いの愛を再発見したのだよ」マスターはまさにそう宣言した。そして、それ以上語らなかった。  この年の冬はこのようにして終わろうとしていた。あるいは、この年の春はこのようにして迎えられようとしていた。三月も中旬になると暖かい日が次第に増え、それらはすぐに暑い日となった。一方で涼しいというよりは寒いような日が、未だねばり強く週に二度は残っていた。特に夜は昼の陽気から急転、手袋無しでは指が凍えるような冷たさがこの時期でもしばしば見られた。  尾上に会ったのも、やはりそんな寒い夜だった。仕事帰り、「213」を出て角を曲がったすぐそこに彼はいた。 「再就職おめでとう」と彼は言った。  彼はその時、真っ黒なジャージを上下に着ていた。空も同じくらい真っ暗になっていて、彼の表情もほとんど見えなかった。  あたりは静かだった。僕は何も言わなかった。 「本当に何もしていないんだ、って言ったら」彼は言った。 「君は信じてくれるかい?」  再び静寂。尾上が、何度が靴を地面に擦る。じゃりじゃりという音だけが耳に残る。 「それでいいんだ」彼は言った。 「それが冷静で公平な世の中への視点ってやつだよ」淡々と、彼は言った。 「まあ、見てろ。本当のところは今に分かるさ」  彼は僕に手を振った。そして、彼は歩き始めた。どこか、こちらではない方向へ。彼のジャージが暗闇に溶け始めると、すぐに見えなくなった。結局、僕は一言も喋らなかった。  以来、僕は尾上を見たことがない。 「楠市連続死体遺棄事件」は今も解決していない。四体目の死体発見を最後に新しい死体も、有力な証拠も見つからなくなった。その一方、他の場所では他の事件が次々に生まれている。大学に立て籠り、最後には屋上から身を投げた老人の事件。二人の政治家と一人の県知事が同時に脱税疑惑で告発された事件。幼稚園児が小学生の兄を刺した事件。国会に猫が迷い込んできた事件。海の向こうで日本人選手がハットトリックを決め、その隣の国では大雪で二百人以上が死んだ。人々はそういった新しい事件を知る一方で、古い事件を忘れていく。  時々、僕はあの死体のことを思い出す。堀に横たわったあの死体のことを。どこの誰かも分からないままにニュースになった、あの死体。あの死体も含め、三体目以外の全ての死体は今も身元が分からぬままだ。そして、今後もそれが明らかになることはまずないだろう。犯人が捕まって自白するようなことが無い限り。あの死体は自分自身を知られないまま、今もどこかの安置所で眠っているのだろうか。  時々、僕はうさぎのことを思い出す。彼と、大井くんのことを思い出す。僕達に同窓会の機会は訪れるだろうかと、時々僕は考える。誰か無邪気な発案者が出席票を送りつけてきた時、彼は参加の二文字に丸をつけて返送するだろうか。そして僕は。  時々、僕は春子のことを思い出す。二月上旬まで断続的に続いた彼女からの電話は、ある日突然止んだ。街で見かけることも無く、彼女との関係は完全に消滅した。少なくとも、現時点では。春子の部屋で見た男と駅ですれ違ったことはある。男は随分年上の女と歩いていた。僕は思い知らされる。どこかへ行かない限り、誰もが今もこの街にいるはずなのだ。春子もそうだ。彼女が卒業するまで、またいつどこで再会するとも限らない。いや、彼女が卒業してどこか別の街に引っ越したとしても、僕がどこか海外で暮らすことになったとしても、またいつかどこかで会うことがあるかもしれない。生きていく限り、誰もがどこかで何かをしているのだから。  時々、僕はCのことを思い出す。彼女と彼女の映画を思い出す。彼女と彼女のパジャマを思い出す。彼女と彼女の料理のこと、彼女と彼女の部屋、彼女と彼女のパソコンのことを思い出す。今もクローゼットにあるピンクのロングスカートを時々僕は手に取って、どうしようもなく笑う。スカートを手にした僕にかけた、彼女の最後の言葉を僕は思い出す。  時々、僕はそういった全てのことを思い出す。どこか筋の通った理論があるようで、例外に満ちた現実について僕は考える。ルールの無い適当な世界のことを僕は考える。そして僕自身のことと、僕を襲って、襲い続ける混乱のことを考える。  父は言った。 「混乱した時に本当に信じられるものはたった三つ。それは自分と自分、それから自分自身だ」  他の全ての格言と同じように、その格言も事実を鋭利に切りとって見せる傍らで、多くの取りこぼしを生んでいる。僕は思う。自分を信じられないからこそ、混乱するのではないかと。父の言葉に頷きながら、僕はそんなことを思う。  時々、トルストイを抱いた辞書が「213」にやってくる。だいたいは閉店直前、客がほとんどいなくなってからだ。僕は困ったような笑顔で迎える。マスターは笑顔で「ポークカツがつくれなくなるよ」と愚痴をこぼす。残っていた客のうち、顔見知りはにやにやと笑って迎え、そうでない人はぎょっとしてフォークの動きを止める。そして誰もがトルストイを見る。トルストイは静かに辞書の膝に座って、マスターの作った特製のマッシュポテトを食べる。時々、むぅ、と言うと店内にいる人間がみんな笑う。客も、マスターも、辞書も、僕も。  僕と僕と僕自身。それでも混乱せずにやっていくには、そうするしかないのかもしれない。